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理不尽な進化【本紹介】進化論を誤解してしまう理由と歴史という知のあり方

記事の内容

進化論という学問に興味はあるでしょうか?

 

学問は知らずとも、私たちの日常生活でも「進化」という言葉はよく使われています。

 

しかし、そこで使われる進化の意味は、進化論での意味と同じなのでしょうか?

 

実はここには、本質的な違いがあります。私たちは進化論を「優れたもの、強いものが生き残る」のように大抵は誤用してしまうのです。では、なぜ私たちは進化論を適切に理解しづらいのでしょうか?

 

今回、紹介する本は「進化論を理解する私たち」を理解することが目標の本です。メタですね。そのために、進化論の歴史における適応主義をめぐる論争に注目しています。

 

人間性を遠ざける学問と人間性を中心的扱う人文学、歴史学。この両者の関係性が主要なテーマです。本書が掲示するつぎの二つの問いが響く人には、まさにぴったりの本です。

 

「それは人間であることとなんの関係があるのか」

「それは進化論となんの関係があるのか」

 

進化論を知らない人も、進化論を勉強してみてなんだか府に落ちない人にもおすすめです。それでは目次をご覧ください。

 

 

 

理不尽な進化 遺伝子と運のあいだ

 

 

99.9%の生物種が消える? この世は公平な場所ではない?
「絶滅」の視点から生命の歴史を眺めるとどうなるか。
進化論が私たちに呼び覚ます「魅惑と混乱」の源泉を、
科学と人文知の接点で掘り当てる、近代思想の冒険的考古学!


「生き残りをかけた生存競争」「ダメなものは淘汰される」―― でも、進化についての私たちの常識的なイメージが、生物進化の実相とかけ離れているとしたらどうでしょうか。 実は進化論という名のもとに、私たちがまったく別のものを信じ込んでいるのだとしたら? 書評子絶賛、科学の時代における哲学・思想のありかたに関心をもつすべての人、必読の書です!

 

理不尽な進化|特設サイト

 

とくに、グールドとドーキンスの対立から見えてくる「歴史の本質」に注目します。自然科学とは性質の異なる歴史という知のありかたについての考察です。そして、それがわたしたちの進化論理解とどう接続されるのかがポイントです。

 

 

 

 

適応主義とは?

 

まずは、「適応」の意味を確認する。

 

  1. ある生物のもつ形態生態行動などの性質が、その生物をとりかこむ環境のもとで生活してゆくのにつごうよくできていること[1]。あるいはそう判断できること[2]
  2. ある生物個体の生存率と繁殖率を増加させられるような特徴のこと。あるいは生存率や繁殖率の向上をもたらす変化の過程[1]

一般的な意味では、1のように生物がその環境の中で生活するのに役立つ特徴を持っている状態を適応している、あるいは適応的であると言う。

適応 - Wikipedia

 

そして、生物の形質や行動はほぼすべて適応的であると仮定して理論を構築する立場が適応主義だ。現代の進化論の主流はネオ・ダーウィニズムなどと呼ばれている。そこでは、適応主義は科学的リサーチプログラムとして有効であり、多くの成果を出している。

 

そんな適応主義に対する批判の声があげた人物として、本書ではグールドに注目する。

 

 

 

 

適応主義の問題点

 

ネオダーウィニズムを批判するグールドの態度からは何が見えてくるか?彼はある意味で進化論の本質を見抜いていた。進化論の魅力と混乱である。

 

進化において、適応は必須のものではない。しかし、適応主義プログラムは方法論として有効だ。ドーキンスとグールドの論争は、ドーキンスの勝ちだと言っていい。

 

グールドの着眼点の一つは、歴史の問題である。適応主義は不可避的に歴史を毀損するのではないか。歴史なしの進化はない。進化という概念には、それが歴史の産物であることが前提とされている。

 

グールドは、現在的有用性歴史的起源を区別することにこだわる。生物の奇妙で不合理なデザインこそ、歴史に束縛された自然の歩みの結果である。「はじめからそうしろよ」は通用しない。

 

しかし、適応主義アプローチはすべてを有用性の観点から覆い尽くしてしまう。これは歴史の一部しか取り出せない。「本当の歴史」ではない。進化論の2本の柱のうちの「生命の樹仮説」の独立性が保てない。

 

 

 

 

 

「説明と理解」という哲学的地雷

 

グールドによる適応主義批判には、二つの側面がある。

・研究にどのような方法を用いるか

・対象である自然がどのようであるのか

 

科学の方法論とは、研究対象のあり方をどれだけうまく説明できるのかということだけであり、それ以上でもそれ以下でもない。しかし、グールドの批判は方法のレベルと存在のレベルを混同してしまっている。

 

なぜグールドはそう考えたのか?

適応主義の方法論は、必ず方法論以上のもの、自然に関する存在的主張にコミットせざるをえないと考えたからだ。

 

なぜか?

進化論は、生物の一般法則だけではなく、生物の個別的な歴史をも扱うからだ。「歴史」という観念は、科学的方法を超える性質をもっている。歴史は一回きりの出来事だ。物理学のように法則を見つけて「説明」することはできない。その出来事のユニークさを通じて、どのように「理解」できるのかと考えるべきだ。

 

さらに、歴史を理解する営みは循環的な構造をもつ。歴史を語ろうとする者もまた当の歴史に巻き込まれている。有限な存在である私たちと歴史との関係は、つねに準備不足の途中参加途中退場であるほかない。(著者のこの言葉は印象的)

 

この循環構造のせいで、学問的方法以前のコミットメントが必要になる。歴史家が狙いを定めた出来事だけが、歴史的事実になる。学問以前の選択なのだから、そこには客観的な基準はない。これは存在論的なコミットメントである。そしてそれは、歴史理解を可能にするための条件でもある。

 

リチャードローティは、自然科学も解釈学的実践であるとする。科学はスペクトラム(連続体)であり、端には物理学という因果の世界があり、もう一方の端には歴史学や文学など意味の世界がある。

 

著者が引用している次の二人の言葉は、強力だ。

 

「数学は史学より厳密であるわけではない。ただ数学にとって重要な実在論的な基礎の範囲が、史学の場合より狭いだけのことである」

ハイデガー

 

科学は「実在への知的態度の選択的体系」

タルコットパーソンズ

 

p320

 

 

適応主義もスペクトラムだ。歴史物語に近づくにつれ、前学問的コミットメントの重要度が増す。ダーウィニズムにおいては、自然の説明と歴史の理解の両者が独立しつつ切り離せない。だからこそ、歴史理解の視点は避けられない。

 

 

 

 

歴史と偶発性にたいする「人間的感覚」

 

グールドは、歴史の中心原理を偶発性だとした。

 

適応主義プログラムは歴史の何を毀損するのか?

それは、偶発性だ。これは、「ほかでもありえた」ということだけを指す。進化の過程は、この偶発性に左右される。

 

だからこそ、偶発性の中身は空っぽでなければならない。進化が「ほかでもありえた」という形で進行するという事実以上のことは語れない。しかし、グールドは偶発性をロマン主義的な装飾でつつんだ。科学的でないと批判される点だ。それに、適応主義の代わりとなる適切なリサーチプログラムも提出することができなかった。

 

著者は、グールドのこうした学問範囲以上の何かを取り出そうとする。

 

理不尽さとは、偶発性に対する人間的感覚である。これは、非方法的な理解をつうじた真理の経験に属する事柄である。著者は、この理不尽さこそ、グールドの核心だったと指摘している。彼は、自らの足跡を消しながら進む自然淘汰に依存しつつ抵抗することによって、過去に存在したはずの偶発性を救出したかったのだ。

 

本書では、学問の有効性を実感しつつも、この人間的感覚が大事にされている。(それが本書の狙い)

 

 

 

 

私たちの進化論理解、人間性

 

私たちが進化論を誤解してしまうことの理由の一つを著者は次のように分析する。

 

自然の説明と歴史の理解の真ん中に位置するという進化論独特の中間的性格のせいだ、と。

 

ここには、私たち人間の性質がある。人間から知的に遠ざかる動きと、人間として生を営む動きとをどのように調停するのか。それこそ、ここに科学的な答えはない。だから、この問いに私たちは回帰してしまう。ほかに、脳科学と心の関係においても、この回帰する疑似問題が避けられないと著者いう。

www.buchinuku.work

 

著者は、科学に人間性が必要だ、進化論は人間性の問いに行きつく、などという主張をしたいのでは全くない。(誤読しがちだから注意!)

 

私たちの99.9%は進化論の専門家ではない。だからこそ、科学だけではなく、科学と私たちの関係性である領域に注目する。人間に対する遠心化と求心化作用の往復運動だ。ここで、著者はつぎの2つの問いの重要さを教えてくれる。

 

「それは人間であることとなんの関係があるのか」

「それは進化論となんの関係があるのか」

 

最後に本書の核となる視点を紹介して、本記事を終えたい。

 

適応主義をめぐる論争は、グールドのいう偶発性が非方法的な「どうしてこうなった/ほかでもありえた」という人間的感覚にすぎなかったことを教える。しかし、それにたいする彼の固執ーー理不尽にたいする態度ーーは、私たちが知的世界へ入っていく際のアクセスポイントは、そうした人間的感覚にほかならないということもまた教える。それは、「この世界に内在しつつ、世界に関わっている者」である私たちが、そういう者として「世界がどうであるか」を語る際の根本的な条件なのである。

p416

 

 

 

 

 

 

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