Twitterに敏感すぎでは?
多くの人は、ツイッターを知人とのコミュニケーションに使う。日常の会話や、ラインでのやり取りの延長である個人的なやり取りがほとんどである。そして、SNSでは他人のやり取りを第三者が見れる。一見、「他人の会話を見れるなんて楽しい」と思うかもしれない。
しかし、そういったやり取りに敏感な人がいる。イライラしたり、怒ったり、傷ついたり、自分にとってマイナスになる影響を受けている。
どうしてそんなに感情を刺激されるのか私にはわからない。自分の好みで、自由にツイッターをやっているはずなのにそれでは害が多いではないか。ずいぶんと不自由な姿勢に見える。
こちらも参考までに。
本来の会話の面白さとは
これまで、会話やチャットは、その当人たちのものだけであった。そこに他者の視線はほとんどなく、第三者がそれを目にすることもなかった。それは秘匿されているし、他者も注意を向けようとはしなかったはずだ。
Twitterの性質「はたから見たら構造」
第三者であるあなたへ
「オマエモナー」と返答するコミュニケーション
p490
「自明に見える前提(全体)も、個人が選択したもの(部分)に過ぎない」という具合に、全体を部分へと脱臼させてしまい、あらゆるメッセージを相対化させていくコミュニケーションの作法 「オマエモナー」と返答するコミュニケーション を活発化させる。
「はたから見たら構造」は宮台真司の上記の本を読んでヒントを得られたように思う。
あらゆる言説が構造的に相対化されている。ゆえに誰が何をしようとも、他者から「お前もそうだろ」と指摘されてしまう。これでは、何をするにも他者関係での不自由さがつきまとう。この「オマエモナー」作法が行き着くコミュニケーションの形態について関心がある人はぜひ上記の本を読んでほしい。
自分がイライラしたいだけなのでは?
他の方法として、自分の不快感の本質を探る、というものがある。むしろこっちが王道だろうか。
なぜ自分はこんなにも何かに対してイライラしているのか。ツイッターに限った話ではく、生活全般の話だ。
いったいあなたの ”なに” と、世界の ”なに” がinteractionしているのか。
人の認識という観点から考えたい。哲学や宗教、認知科学、様々な先人たちが人の認識と世界について分析している。
ツイッターなどでイライラしている人は、日常生活の他の場面でもイライラしているのではないか。
不快なものを探そうとするから見つかるのだ。あなたが見つけようとするからそれは見つかる。幸せな人は幸せを見つける力があると言える。同様にイライラが見つかるのは、あなたが不快なものを見つけようとしているからだ。すべてはあなた自身の認識の問題だ。これは世界の見方に関わる根本的な話である。世界とは考え方次第でどうとでもなる。あなたの認識に依存するのだ。なぜならばそれはあなたの世界なのだから。
つまり、あなたの中の ”ある欲求” があなたにその世界を見せているのだ。
その何かを分析することで自分自身からより自由になれるだろう。