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「正しい」という "まやかし"

武田教授の眠れない講義 「正しい」とは何か?

 「正しい」とは何か、これを一流の科学者が論じる。経験豊かな考察に満ちている。やはり数字にのっとた分析が丁寧で、説得力がある。科学者らしい。

 

「正しい」という言葉のせいで、思考停止しないようにしたい。

 

 

絶対的な「正しさ」は無い、なのに社会は・・・

日本では「事実は事実で決める」のではなく、「事実は空気が決める」ということになっていますので、日本人の多くが、世間で何となく「石油はすぐ枯渇する」と言われていれば、それが事実になります。
 

人間社会の中の「正義」は、「その人の立場から見た正義」で、決して、これまでに整理した「絶対的な正義」ではありません。「正義は人の数ほどある」とか「正義は商売の数だけある」という種類の正義です。

 

私たちが事実と思っているのは、ほとんど「利己的正義を利他的正義に粉飾したもの」であることを頭に入れておく必要があります。

 


「正しさ」と学問、人間理性

 「生物学的正義」に従えば、「自らが有利になる正義」が必要で、それを「社会としての正義」との間で整合性を取らなければなりません。それに学問(理性)を使うのです。
 
科学、学問、思想などと言われる人間の精神活動、内的な活動には正しいとか間違っているということはなく、あくまで社会との関係が生じたときに「正しさ」が問題になります。 
 
オオカミのオス同士の争いでも負けた側がお腹を見せれば、それが「降参した」という合図で、勝ったオスが負けたオスのノドを食い破るということはしません。つまり、動物は「無益な戦い」をしないのです。その点で、人間は自身を「万物の霊長」と言い、「正しいとは何か」などと議論する割には、最低の倫理すら守れないことがわかります。「同一種族を殺害する」というのは「本能的なもの」ではなく、頭脳の働きによって本能が破壊された行為と言えるものです。 

 

理性は「利己的な正しさ」を「利他的な正しさ」に転換できるので、何が正しいかを考えるときに過剰に理性に依存してはいけない。
 
明日には間違っているかもしれない「科学」
結果、どうなるかわからない。これが科学なのです。  科学的正しささえ疑う。それが科学なのです。逆に、自分の言ってきたことが「正しい」と、疑問を差し挟まなくなった時点で、科学者は終わってしまうのかもしれません。
 

動物は無益な殺生はしない。けれど、人間は人間を殺す。なぜなんだろうか。その説明の一つとしてためになる。人は理性があるから人を殺せるのだ。動物的本能を、理性によってある程度コントロールすることで「人間」になった。これは、とてつもない進化といえる。理性、言葉によって抽象的なものを扱えるようになったことで、自らの本能すらも対象化できるのだ。進化が選択したのがこの道だった。進化という大きな運命からみれば、人殺しの問題などは、瑣末なものなのだろうか。

 

 

言葉によるまやかし


言葉によるまやかしについては、十分に気をつけたいところ。言葉とは、階層的には無意識に位置する。だから、これを意識で直していくのは難しい。しかし、言葉という道具のメリット、デメリットを実感しないままでは、今回のように言葉に煙に巻かれてしまう。
 
言葉のデメリットとしては、思考停止、実在化、が挙げられる。
 
「正しい」という言葉により、それ以上考えなくて済むように見えるし、「正しい」という何かが絶対的に存在しているかのように見なしてしまう。
 

こういう無意識のクセを調整することにこそ、理性を使いたい。

 

 

 

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