「はっきりしろ」と言われがちな世の中
今回は、作家である森博嗣さんの言葉を紹介します。
彼は、本当に自由な思考の持ち主だ。だからこそ、何ものにも縛られない中立的な意見がほんとうに鋭い。いつも気づかされることが多い。作り出す小説もエッセイも、とても好きなものが多い。
子供の頃から、「はっきりしろ」と言われることが多かった。どこか違和感のようなものを抱えていた。みなさんはどうだろうか?
・「私」についてどう考えるべきか
・どういう状態に自分を保つべきか
今回の記事では、これらテーマについて考えてみたい。
はっきりしなくてもいい
「はっきりする」のがいいことだ、と一般には考えられがちだ。しかし、彼はそれに反してこう言う。
好きなのか嫌いなのか、自分はどんな人間なのか、そんなにはっきりわかっているのだろうか。僕は、はっきりしている人間というのは、つまりそれだけ「浅い」のだろう、と想像してしまう。
物事を簡単に断定しない慎重さこそ「深さ」であって、意見を絶対に変えない頑固さが「浅さ」になる。
こちらのエッセイに収録されています。オススメです。
確固たる私なんてないよね
私とは、固定的なものではない、と思う。そもそも、私とは「関係」であるからだ。仏教の縁起からも学べる考え方でもある。例えば、自己紹介するときも「私は、〇〇の仕事をしています。」などと、人間社会との関係によって、私を定義することになる。このように、「私」なんて周囲との関係が変われば、変わっていくものなのだ。「私」という確固たる実態があるように見えるのは、この「私」という言葉のせいにすぎない。
成長したいと願うのに、「私はこういう人間だ」と過去の自分に固執する。これは、真逆の動きだろう。こういう時にはこうする、食べ物はこれが好き、などの単純なパターンの積み重ねで生きている状態を、「はっきりしている」と呼んでいるように見えてしまう。それならば、この「はっきりしている」という状態は、不自由なものだろう。
人生は数十年もあるのに、全く変わろうとしない人もいる。とくに、大人に顕著な姿勢だろうか。一回きりの人生なのに、変化が少なくてもいいのだろうか。やはり、森博嗣の言うように、はっきりしない態度が重要だと思う。その態度こそ、柔軟に新しいことを発見しようというものだ。それが、人生をより楽しくしてくれるはずだ。
はっきりしないということは、常に考え続けよう、ということでもある。「考えるのなんてめんどくさい」と思うだろうか。そう思っている時点で、他者に操作された人生で終わってしまうのでは?「他者によって決められた自分」と「はっきりとした自分」は、近いものに見える。それでいいのだろうか?これも、それぞれ自分でよく考えてみるほかない。
「はっきりすべきだ」という言葉に操られてはいけない。言葉の操り人形のままでいいのだろうか。
分人
関連して、私は「分人」という考え方を紹介したい。これも、確固たる個人の私が一つだけあるというものではない。いろんな人と接している時に出てくる様々な私が、どれも私である、というものだ。この本のタイトルの「個人から分人へ」の言葉に、私は共感できる。
おまけ
森博嗣ファンの皆さん、彼の声を聞いたことがあるでしょうか?
実は、彼はラジオに出演したことがあるのです!!!!
私自身、彼の肉声を聴くことができた時には、とても驚きました。以下にリンクを貼っておきます。
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とてもすごい人であるからこそ、本ブログでも何回か記事にしています。まだまだ、彼の主張、生き方からは学べることが多い。ぜひ、みなさんも読んでみてください。
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まとめ
・はっきりした状態とは、浅い
・自分を固定しないほうがいい
・「分人」という様々な私があるという考え方
本ブログが誰かの自由につながったのなら、うれしい。