教養の定義とは?
- 教養の定義とは?
- 教養ということの本質へ
- 教養は楽しみを増やす
- 教養と「私」 楽しむのはいったい誰なのか?
- 「私」ってどうわかるの?
- 教養によって、「私」のことがわかってくる理由
- よりよく生きるために必要なこと
- 教養と勉強のちがい
- 僕は君たちに武器を配りたい
- 抽象的すぎ?
教養ということの本質へ
金銭的な格差よりも、知恵や楽しさの格差の方がずっと大きい
そのエッセイの本文の一部も引用する。
教養のない人は、金がないからそれができないと諦めているが、金には無関係である。また、学校で教えてもらえる知識が教養だと勘違いしている人も多い。知識も必要だが、そこから育ってくる先にある人間性に近いものが「教養」であり、「楽しい生き方を知ること」とも換言できる。「教養がある」というのは、「教養を求めている」ことと同じだ。「楽しさ」も「楽しさを求める」ことと同じである。『ツンドラモンスーン』森博嗣
教養は楽しみを増やす
広く様々な考え方を知る。そうすると、楽しむことができる対象がぐんと増える。たとえば、趣味が多い人の方が、楽しむことのできる対象が多い。また、他の人がつまらないなと思えることでも楽しくなる。
この繰り返しは、知ることそのものが楽しくなっていくことを意味する。一番重要なことは、もっと楽しいことがあるんだという期待を持てることだ。この循環がとても心地いい。
いろんなものを楽しむことができる。これはかなり生きやすい姿勢だと思う。これは、まさに今私が強く実感していることでもある。以前の自分にはつまらなかったことも楽しいことに変化した、こんな経験が増えてくるだろう。
楽しみの増幅、これは、自分が変わることで世界の見方が変わったということを意味する。教養は自分自身を変える。だからこそ、教養と「私」、このテーマがとても大事である。
教養と「私」 楽しむのはいったい誰なのか?
さてここで、私が重要視している視点を導入したい。それは、「楽しむ」のはいったい誰なのか?、という問いだ。
当たり前な答えだが、それは「わたし」だ。わたしが楽しんでいる。これはつまり、なにを言いたいのだろう。人生の主体である「私」の存在と教養の関係は密接だ。
教養が増えれば、いろいろと楽しめるようになる。それとともに、「私」自身のこともどんどんわかってくる。教養を身につけていくことで、「私」自身のことがより見えてくるのだ。自己発見である。だから、教養とは自分がわかることだ、と言いたい。
「私」ってどうわかるの?
楽しむという行いと、その行為主体である「私」を分けて考えてはいけない。この二つはセットで考えるべきだと思う。では、「私」がわかってくるとはどういうことだろうか。「私」を主体、自我などの言葉に言い換えてもいい。
まずは、私、主体、自我ということの本質に迫ってみる。
そもそも、「私」を定義することは可能なのだろうか。具体的にやってみよう。自己紹介の場面を思い浮かべるのがてっとり早い。
「私は、〇〇という会社に所属していて、〇〇な仕事をしています」
「私は、〇〇大学〇〇学部の2年生です」
「私は、何人家族の長男です」
これらの例のように、「私」を紹介するには、他の何かとの関係を使うしかない。つまり、「私」だけを独立に説明することはできない。
他のものごととの関係の中にしか、「私」はない。
これは、「私」というものの原理的な性質といっていい(仏教哲学の本質である「縁起」にあたる)。たしかに、人は赤ちゃんとして生まれた時には、ほとんど自我はない。成長する過程で、他者、世界、ものごとがあることを体感し、それら他者との比較の中で、「私」つまり自我がどんどん出来上がっていく。
教養によって、「私」のことがわかってくる理由
関係でしか「私」を捉えることができない。
それならば、「私」のことを知るには、関係を増やせばいいわけだ。常に人間は成長過程にいる。赤ちゃんが自我を作り出すように、私たちもいろんなものと関係を通して、自分をもっと知ることができるはずだ。
「私って、これをしている時が楽しいんだ、落ち着くんだ。」
「私は、こういうことするのはつまらないな」
他のものとの関係の中に自分が現れてくる。自分の感情がより見えてくる。これが「私」がわかってくるということの一つだと思う。とにかく、いろんなことをやってみて、いろんなことと関係をつくらないと「私」のことなんてわからない。
一方で、「私」が固定的すぎるのように見える人もいる。「私」とは、常に他のものとの交流の中で微妙に変化し続けているはずだ。それなのに、好き嫌い、得意不得意など、きっぱりと自分にそぐわないものを遮断する人もいる。
その姿勢は不自由ではないだろうか?こちらでも書いている。
よりよく生きるために必要なこと
また別の角度を導入する。
よりよく生きるとはどういうことなのだろうか?
よく生きる。
ここには「良い悪い」という価値観が潜んでいる。
しかし、これが良い、という誰にでも当てはまるような絶対的な価値観はない。
「正しい」などという決まりきってそうな概念ですら、相対的なものにす気ない。
自分にとって何が良いのか悪いのか、それは他者が決めることではない。よりよく生きるということは、あくまでもあなたの問題なのだ。
自分にとって何が良いのかは、もちろん人によって違う。それならば、人の数だけ生き方はある。そう、ここでも大事なのは「私」自身だ。あなたにとって、より良い生き方があるはずなのだ。
そして、その基準を決めるのは他でもないあなた自身だ。自分で決めるためにも、「私自身」のことを知っておくことが大事になる。だからこそ、自分を知るために必要なものこそ教養であり、それが「よく生きる」ことにつながる。
あなたにとって、なにが「よい生き方」「楽しい生き方」なのか。教養が増す中で、もっと広い視点が獲得できるはずだ。自分にとっての自由につながる。
教養と勉強のちがい
本屋に行けば、勉強の大切さを説いたたくさんの勉強本が出ている。しかし、それらお手軽勉強本を読んで、より生きやすくなれただろうか。
私自身、単なる勉強本のループから抜け出す強さなんて初めはなかった。大概の勉強本は消費者の不安を煽る。それを買っているだけでは、不安解消マーケティングにただ踊らされているだけだ。
そのループから抜け出すためにこそ、「私」の強さがいる。「私」を知ることが重要になる。お手軽には身につかない深い教養がいる。不安ループから抜け出すためには、「ある程度の教養を身に着ける過程」という格闘がいる。
教養とくくられるが、その内実は無限で多様だ。だから、死ぬまで新しいものと自分との関係を結んでいける。死ぬまで「私」は変化し続けることができる。言い換えれば、思考停止することのない人生といえる。
自分で考えることの充実に満ちた人生だ。お手軽な勉強本では得られない快楽である。
この力こそ、正解のない現実世界を生きていくうえで、もっとも大切なことではないだろうか?
僕は君たちに武器を配りたい
さて、こちらの本から教養についての一節を抜き出しておく。
大学では「奴隷の勉強」に時間をかけず、自由人になるための「リベラルアーツ(教養)」を学べ
自由人になる=自分で考えられる
私も同感だ。
こちらの記事でもまとめている。
抽象的すぎ?
教養についに色々と考えてきた。ここまで読んできて、「結局具体的にどういうこと?」「抽象的だなあ」と、思う人がいるかもしれない。
私はこう定義した。
本ブログが、誰かの生きやすさにつながったなら嬉しい。