きちんとした「主張」のために
「私のこと分かって」というふうに聞こえる
「自分の意見をきちんと持て」
そう言われる世の中ですね。
みなさんは、主張することに自信を持てているでしょうか?
また、日々、SNSなどで回ってくる主張に、どこかしら不満・違和感を感じてはいないでしょうか?
その主張に「私のこと分かって」感が混ざっている。これが、私が感じる違和感の正体なのかもしれません。
意見を言うにあたり注意する点は、感情・願望・欲求が混ざっていないかどうかです。今回の記事では、作家である森博嗣の言葉を参考にしながら、この違和感の正体を探ってみます。
主張に願望が混ざっている
一般的にみられる主張に対して、森博嗣さんはこう分析しています。
人の主張の大半は「これが正しい」ではなく、「こうあってほしい」である。
・現状はこうであってほしい、これからはこうなってほしい、と考えがち。
・ものの見方、観測にも欲望と願望が混ざってしまっている。
・そもそも自分の意見が感情論だから、意見を否定されると怒り出す人もいる。
・議論を好き嫌いの対象にしてはいけない。議論は単なる情報交換であり方法の一つ。
常識にとらわれない100の講義
上のテーマは、こちらのエッセイにのっています。鋭くて自由な話が満載です。このエッセイシリーズは、何冊か出ています。どれも、考えさせられるテーマでいっぱいです。
もっと自由に思考したい人におすすめな作家さんが、森博嗣です。
主張の根拠は?
そもそも、主張するためには、それを支える根拠が必要だ。それならば、根拠とはどういうものであるべきなのか。実はここも、厳密には難しいところではある。
一般的な範囲で話そう。
感情を除く。これが、鉄則である。しかし、人間は感情の生き物だ。
それに、自分が持っている根拠から、自分自身の主観を完全に取り除くことはほとんど不可能である。だからこそ、より確かな議論を構築するために、人類は科学というものを作り上げてきた。
科学では客観性を重視する。そんな科学において根拠となるのが、データであり統計学だ。けれど、そのデータがどれほど信頼できるものなのかや、統計学そのものについてさえ様々な議論がある。絶対的ではない。
つまり、できるだけ個人的な感情を除きましょう、というぼんやりとした言い方しかできない。
感情の定義は?
どうしてもぼんやりとした言い方になってしまう。この理由はなんだろう。
その理由のひとつは、「感情」の定義が曖昧だからだ。
みんな、この言葉をぼんやりと使っている。(実は、ぼんやりと使っているからこそ会話が成り立つのだ、という見方もできる。)
科学でも感情の扱い方には、議論が多い。どんな立場で設定するかによって、感情の定義はまちまちなのが現状だ。
感情というものを言葉で厳密に定義できない。感情的か、そうでないか、この線引きはとても難しい。それならば、もちろん言葉を使って議論する主張にも影響が出てくる。その根拠には、あなたの「主観的な何か」が混ざってはいないだろうか?こんな具合で、あなたの主張に説得力が足りないことになっているのかもしれない。
感情と私
ここで考えたいことは、主張を否定されて怒り出す人についてだ。
人は感情を否定されると怒り出すものだから、なのだろうか?
必ずしも、そうとは限らないように見える。ここでも、「私」「感情」「否定」などの意味を、個人がどのように捉えているかが違う。それまで、その人がどのように生きてきたかという経験が、それら言葉に実感を与える。そこで生じる違いが、もしかしたら怒りにつながってしまうのかもしれない。
子供の駄々
主張に潜む「こうなってほしい」という感じ。
これは、最初に言ったように「私のこと分かって」感が強い。
こういう言葉にどう反応すればいいのだろうか。
「私はハンバーグが好きです」
「私は冬が嫌いです」
これらの文と、願望が混ざった主張というのは構造的には近い。
他人にこんなことを言われても、「うんそうだね」「はいはい」という感想しか持てない。大人の対応というやつなのだろうか。
友人間、知り合い同士であるならば、「私のことをわかって」が主張に潜むのはある程度成り立つことなのだろう。しかし、ネットでは不特定多数の人に届いてしまう。そういう場では、その主張は子供の駄々のようだ。
この時代だからこそ、個人も、「主張の言い方」というものを学習すべきである。
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ひろゆきも似たようなことを言っています。
まとめ
・人の主張の大半は「これが正しい」ではなく、「こうあってほしい」
・感情の定義は難しいからこそ除くのは大変だが、感情論にならないように
・感情論であるならば、それは「私のことわかって」と言っているにすぎない
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