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ゲーデルの謎を解く 薄くて読みやすい 不完全性定理の本質を理解できる入門書

記事の内容

ゲーデルの不完全性定理についての本を紹介したい。林晋氏の「ゲーデルの謎をとく」だ。

 

 

 

この本は、勉強していくと、疑問に感じるちょうどいいところまで、簡潔に説明してくれている。この薄さで、定理の本質を伝えてくれるのはすごいとおもう。

 

今回は、個人的に気になった箇所をまとめてみたい。

不完全性定理について、ある程度知っている方にむけての記事になる。

 

 

 

 

不完全性定理 おすすめ

不完全性定理そのものについては、次の記事で紹介している。興味がある人は、まずはこちらから読むのがおすすめだ。

 

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数学と不完全性定理

 

最善のシナリオ 完全で正しい数学の理論が完成する

最悪のシナリオ 間違った数学の理論が完成する

次善のシナリオ 完全で正しい数学の理論は完成しない

 

ゲーデルの第一不完全性定理により、「最善のシナリオ」は否定された。

 

さらに、「第二不完全性定理」が次を示した。

 

「数学の理論が正しいと決まっているならば、それを、数学的に保証してみせることはできない」

 

つまり、最悪のシナリオを回避できるという保証を得ることはできない。

 

ヒルベルトは、数学が間違っていないこと、つまり、数学の無矛盾性を形式的理論によって示そうとした。しかし、

 

形式的理論には、数学を完全に写し出す力がない

 

これが、不完全性定理の言いかえである。

 

 

 

 

数学が矛盾するって??

 

数学の基礎になり始めた集合論に、矛盾が見つかってしまった。自分自身を要素としてもつような集合まで、考え始めてしまったせいだ。

 

安全基準を設定して集合を使うといった、ツェルメロの集合論などが使用された。

 

 

 

 

形式的理論=数学ゲーム

 

言葉で書かれた証明を、記号化する。

 

これによって、数学をある規則にしたがって、記号をならべていくゲームと見立てることができる。そこには、ルールにのっとた記号の列だけがあり、主観が入り込む余地はない。

 

形式的証明は、現実世界の証明を「再現」する。

 

条件1 ツェルメロ・ゲームでAが出題されたとき肯定派が勝つ

条件2 ツェルメロの安全基準にしたがって、Aを証明できる

 

この二つが同じことになる。

しかし、この二つが同じになることを、数学的に立証はできない。

 

条件2が明確とは言えないので、わざわざ形式化=ゲームを作ったのだ。

 

だから、この条件ふたつが本当に同じになるのかどうかは、実験的に調べていくしかない。

 

(この微妙な違いは重要だと思う。その違いが、形式的体系をゲームとみたてることによって分かりやすくなっている。この違いが、のちに、形式的体系の内か外かどうかの理解にかかわる。不完全性定理のイメージとして、大切な箇所だと思う。)

 

 

 

 

数学ゲームは無矛盾か?

形式化されたゲームが、「無矛盾性」をもっていることを証明したい。

 

そして、無矛盾かつ完全なゲームでは、肯定、否定、のどちらかに必ず勝敗がつくことになる。論理式で表せさえすれば、勝ち負けの決着が必ずつくことになる。

 

人間が神のように数学のすべての問題を解くことができることになる!!

さらに、数学ゲームはコンピュータで再現できる。つまり、コンピュータがあらゆる数学の問題を解く能力を持つことになる。

 

これを著者は、「数学ゲームが完全ならば、神の論理、人間の論理、コンピュータの論理は一致する」と表現している。

 

しかし、これを否定したのが不完全性定理である。

 

「算術ゲームを含む数学ゲームは、無矛盾である限り、完全ではない」

 

つまり、数学の理論は、無矛盾であっても、正しいとは限らない。

数学ゲームは無矛盾なのに、正しくない結論を導いてしまう。

 

 

 

 

「自分が証明できない」

 

ゲーデルは、「この論理式は、数学ゲームでは証明できない」という論理式をつくった。これは、「自分は証明できない」という内容を示す。

 

「正しい」ということの意味は、「数学ゲームで証明できること」という点に注意。

 

数学ゲームで証明できる=数学ゲームの中では正しい

 

よって、「この論理式は、(数学ゲームでは)正しくない」

これは、「この文章は正しくない」というエピメニデス文と同じ構造になる。

 

 

 

 

証明できないが正しいもの

 

数学ゲームをつかって、ゲーデル論理式が正しいか正しくないかの決着をつけることはできない。しかし、ゲーデルの論理式が証明できないことから、ゲーデル論理式が正しいことがわかる。

 

ゲーデル論理式は正しいのに、数学ゲームでは証明できない。

 

私はゲーデル論理式を正しいと証明できたはず。不思議な感じがしないだろうか?

「証明をしている私」と「数学ゲーム」という主語の違いが重要になる。

 

「私」のほうは、「無矛盾性を仮定」していた。だから、背理法を使える。一方、数学ゲームは、自分の無矛盾性については何も知らない。この点で、「私」は、「数学ゲーム」を越えていることになる。

 

 

(「証明できる」「正しい」の主語に注意。主語によって、文脈が変わる。初学者は、この二つのレベルを混乱しがちだろうか)

 

 

 

 

 

第二不完全性定理へ

 

「数学ゲームは自分の無矛盾性をしらない」ことこそが、第二不完全性定理の本質。

 

 

「数学ゲームが無矛盾ならば、そのゲーデル論理式は証明できない」

ゲーデルがやっていたこの証明は、算術化できる。つまり、算術ゲームのなかで再現できることになる!!!

 

人間がやったように、数学ゲームに、「私自身は無矛盾である」という仮定のもと、背理法を使わせてやる。すると、数学ゲームの中で、「数学ゲームが無矛盾である」という前提のもと「ゲーデル論理式は証明できない」を導こうとすると、矛盾してしまう。つまり、仮定がおかしい。

 

第一不完全性定理を証明をしようとしているときは、数学者が「数学ゲームは無矛盾」を仮定していた。この証明過程を数学ゲームにやらせようとすると、矛盾が起きる。この矛盾は背理法の矛盾だ。

 

よって、無矛盾な数学ゲームには、自分自身の無矛盾性を証明する能力はない。

 

 

 

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