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ウィトゲンシュタインと仏教!? 【理性の限界内の「般若心経」】

記事の内容

元から私は、仏教の「空」という真理に興味を持っていた。それはたしかに、論理的に考えれば行き着く場所であるように思えたからだ。

 

しかし、「論理」もとても魅力的だ。だからこそ、論理をつきつめたウィトゲンシュタインの哲学は、とても学べるものが多かった。

 

そんなわたしにとって、以前から気になっていた本がある。

仏教哲学とウィトゲンシュタインが融合した本だ!!!

今回は、その内容を紹介したい。

 

理性の限界内の「般若心経」という本である。ウィトゲンシュタイン研究者が、般若心経を解説した本だ。

 

縁起は言語ゲームである

 

 

おもしろそう!!

 

 

 

 

 

理性の限界内の「般若心経」  黒崎宏

 

 

 

縁起とはウィトゲンシュタインのいう「言語ゲーム」である。現代哲学をベースに、「色即是空」から末尾の真言まで、般若心経の謎を解き明かすとき浮かびあがる仏教の神髄。

 

 

 

 

 

ウィトゲンシュタインの言語ゲーム

 

論考では、語の意味として、それが指示する対象が実体のものとして考えられていた。

 

しかし、彼は、「言語ゲーム」へとすすみ、論考の基盤を否定する。

 

そこでは、語の意味とはその使用である、とした。

 

世界は、物の世界でも、事の世界でもなく、「言語ゲーム」の世界なのである。

 

ここでの境地こそ、一切は言語的事象ということになる。(ここに、仏教との共通点が見えてくる)

 

語によって指示されないものは、存在しないのだ。実体の否定である。これを、意味負荷性と、著者は呼んでいる。

 

 

ウィトゲンシュタインなどから連なる、分析哲学をまなんだあとに、仏教へすすむのがいいと思う。徹底的に論理的にこの世を分析する訓練が必要になるからだ。論理という言葉を使いつくした後に、それでも、分析つくせない領域があることがわかる。この分析の具体例こそ、ウィトゲンシュタインの言語ゲームだろう。言語の基盤に確かなものがないことに気が付いた。

 

そこまで分析が進めば、自然と「空」の境地に近づくのではないか?ここには、「信仰」という思考停止はない。お釈迦様も、信仰などは求めていなかった。それよりも、やはり、自分の頭で徹底的に考え抜くことを説いていたと思う。

 

 

 

 

ウィトゲンシュタインおすすめ記事

ウィトゲンシュタインや分析哲学については、次の記事がおすすめだ。

 

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・説明という営みの限界
言語ゲームを背後で支える、さらなる説明はない。

三段論法のような論理的な推論にもパラドクスが生じる。三段論法を支える根拠となる推論法則はどこにあるのか?さらにその推論を支える追加法則は??

この規則の追加は、無限に終わらない。つまり、実践の一致の説明に「底」がある。

 

 

 

 

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縁起

 
存在するのは、意味の世界のみ。そして、意味とは、他の意味との相互関係によって決まる。つまり、意味の世界では、独立存在はあり得ない。
 
この真理こそ、「縁起」になる。
 
縁起から自然と導かれる状態を、「空」とよぶわけである。
 
 
 
 
 

「色即是空、空即是色」をどう解釈するべきか?

 
色と空は、一つではないが、別でもない。
 
この真意には、般若の思想を理解する必要がある。禅の論理でもあり、日本的霊性と言ってもいい。
 
単純に言うなら次のようになる。
 
肯定が否定で、否定が肯定である。
 
「即非の論理」とでも呼ばれている。
 
文脈としては、本来は対象化できないものを対象化することに対する批判、といえる。
 
ここに来て、ウィトゲンシュタインとつながる。
 
「本来は対象化できないもの」を「語り得ぬもの」とすればいい。
 
つまり、ウィトゲンシュタインの文脈で言う「語る」と「示す」になる。
 
ゆえに、真の「般若波羅蜜」は語り得ぬものであり、説くことができないものなのである。だから、仏は、「示す」ことをした。
 
指示するためには、般若波羅蜜という語とその使用が必要になる。だから、これも言語的存在になる。
 
 
 
 
個人的には、空というものを「あるとも言えるし、ないとも言える。ないとも言えるし、あるとも言える」のように、二元論の境界がない状態、二元論を包摂する状態、のようなイメージでとらえていた。数字的にいうなら、0=1、0=∞である。
 
しかし、空を言葉で説明しきるのは不可能だ。言葉で表せないものだからだ。「言語的事象」の向こう側、といえばいいだろうか。だからこそ、論理学などの見識を深め、論理の限界を知ることがいいヒントになる気がする。そうすると、空のイメージがしやすいのではないか。
 
まさに、ここにも、ウィトゲンシュタインの「語り得ぬもの」との近さを感じる。
 
 
 
 

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著者は、ウィトゲンシュタインの研究者として、様々な本を出している。