記事の内容
今回は、子ども、教育についての記事です。
「子どもの方が本質を見抜いている」
このように感じたことがある人はいないでしょうか?
このテーマに関係のある本質的で、面白いアイデアに触れることができました。
今回の記事では、そのテーマについて考えてみます。それでは、目次をご覧ください。
現代教育への批判
堀江貴文氏が語る教育論についての次の動画の中で、このアイデアは登場する。その部分を引用したい。
子どもの方が先進的。
子どもがつまらないことは、本当につまらない。
子どもがやっていることは正しい。
この言葉にピンとくる人はいるだろうか?そんな人は、日々感じている感覚が言語化できたのだと思う。
大人が見失っているある大切な視点が見えてくるはずだ。
彼の教育論への考え方は、次のような本がいいかもしれない。
「本質」を見抜く力
「こどもがやっていることは正しい」
この言葉の意味を、自分なりに考えてみたい。
子どもと対比して、大人の特徴を考えてみよう。一番大きな特徴は、常識によって思考停止していることではないだろうか?
成長すればするほど、常識というフレームで物事を考えるようになる。つまり、そのフレームに頼りっきりになり、自分で考える力を失ってしまうのだ。
一方、子どもは日々新しいことに触れている。その中で彼らは、常識には頼っていない。余計なものに加工されていないから、より本質に近づけるのではないだろうか?
実際に、こどもが発する疑問は、時にとても鋭いことがある。
常識による思考停止がない分、ストレートなのだ。いいかえれば、本質をつかむ力があるということでもある。子どもはもともと本質をつかむ力を持っている。なぜならば、そうすることが人間の生存上有利だったからではないだろうか?だから、本能はその機能を有している。
大人たちが使っている常識というフレームは、そもそも本質をつかむために作られていない。だから、そのフレームに頼れば、本質を見抜く思考は、邪魔されてしまう。
同調ゲーム
しかし、成長するにつれて別の生存原理に巻き込まれてしまう。それは、みんなに合わせるというゲームである。
そこでは、生きるためにみんなと同じことをする必要がある。だから、その中で機能する「常識」というフレームに染まるしかないのだ。そうしなければ、生きるのに不利になるからだ。ここまでの話をきいて、真っ先に「学校」という空間が浮かぶのではないだろうか。
そこでは、教育という名のもと、思考停止が進められてしまう。
「自分」を出すのではなく、みんなと同じになることが求められてしまう。
よって、自分の本能のもと、自分の問いを発していた主体は、どんどん弱くなっていく。その結果、思考停止した「大人」へと、どんどん近づいてしまうのだ。
結局、考える力
教育とは、知識を与えること。
しかし、知識には弊害もある。知識があれば、それ以上のことを考えることをやめてしまう。疑問を持つことをやめてしまう。
知識の前に、その知識を使役できる「主体」が大事だと思う。
主体を大事にすれば、自然と様々な疑問が出てくるはずだ。なぜならば、生きる必要があるからだ。それを、子どもたちは自然にやっているのだろう。
一方、大人たちは、固まったフレームの中で生きている。日々の生活に疑問を持って生きるということは、より楽しく生きることにつながるはずだ。思考停止さは、楽しさとは真逆にあると思う。
教養
しかし、一度、知識をいれてしまえば、もう後戻りはできない。それならば、どうやって自由になればいいだろうか?
知識は知識で壊せばいい。
知識をアップデートし続けることは楽しい。そこには、主体的な思考があるからだ。そこでは、主体と知識が溶け合い、考えることが楽しくなる。そこで役立つのが、教養だと思う。
「教養とは自分がわかることだ」と、私は定義したい。「主体」というものを重要視している。
詳しくは、次の記事を見てみてほしい。
楽しそうな子ども
子どもたちは、本当に生きることを楽しんでいるように見える。そこに、私たち大人も人生を楽しみ切るヒントがあるように見える。
そこからのヒントも、やはり、他者による思考停止ではなく、ありありとした主体性だと思う。なぜならば、「楽しさ」とは与えられるものではなく、自分で創るものだと思うからだ。
次の記事が大きなヒントになると思う。ぜひ読んでみてほしい。
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