運命ってなんだ??
今回紹介する本は、「運命論」を哲学するというものだ。
この運命という言葉、誰でも気軽に使っていると思う。
「あれは、運命だった」
「運命によって導かれたんだ」
しかし、運命という概念、深く考えようとすれば、なかなか奥が深い。
自分自身の生活に密接であるこの概念を、哲学という手続きによって考え直してみる。これは、とても楽しく役に立つだろう。なぜなら、自分の人生にとても関わるものの見方だからだ。
今回の記事では、この本の肝となるアイデアをまとめてみる。
運命論を哲学する 著者について
入不二基善
分析哲学が専門。ウキペディアの彼の名字についての話が面白かったので、載せておく。
入不二基義によれば、入不二(いりふじ)という珍しい名字は、大乗仏教の経典『維摩経』に出てくる「入不二法門」(にゅうふにほうもん)の話に由来するという[3][4]。「入不二」(にゅうふに)とは善と悪、生と死、真と偽といった二項対立型の概念について、それら二つのものは本来ひとつのものである(不二)ということを知る、悟る(不二に入る)といった意味の言葉。
森岡正博
生命の哲学が専門。早稲田の教授。
入不二の「運命論」入門
この本では、入不二による運命論を様々な角度から考えていく。
ここでは、その基礎となる考え方をまとめられたら、とおもう。もちろん詳しくは、本書に進んでほしい。
彼の運命論とはこうだ。
「あるようにあり、なるようになる」
これが、彼の運命論で言いたいことだ。この一言の内実を少しでもわかるように、まとめたい。
とくに、次の考え方がキーワードである。注意してほしい。
「二つの側面が互いに終わりのない運動を続けていく動きそのもの」
現実の「現実性」
・唯一性 今目の前に起こっていて、体験しているこの現実のこと。中身のこと。
・全一性 今目の前にあるという中身にかかわらず、「現にあるものが現にある」ということ。つまり、構造のこと。
これら2つの性質から、現実の2種類の側面が浮かび上がる。
・相対現実 唯一性からは、現実の中身が入れ替わることがわかる。
・絶対現実 現実という構造は、中身にかかわらず絶対だ。
終わりのない無限運動
私たちのとっての現実とは、この相対現実と絶対現実が近づきあう運動そのものなのだ。これは、終わりがなく、無限運動である。
相対現実を、私たちは、「このようなものがある」と感じる。
絶対現実を、私たちは、「あるものがある」と感じる。
「このようなものがある」
「あるものがある」
これら二つの表現を同時に満たすものが、私たちの現実なのだ。
それが、「あるようにある」という言葉である。これが、「終わりのない動きそのもの」である現実(2つの側面を両立させる)を表す。
運命と時間
運命には、時間という側面もある。時間も立場によって、いろいろと議論はあるが、彼の運命論では、時間を「なる」という言葉との関係で扱う。
・ある これまで扱ってきたように「存在」のこと
・なる 時間制がある。
・中身 相対 「このようなものになる」
・構造 絶対 「なるものがなる」
ここでの、「なる」の構造的な絶対性は、過去・現在・未来を貫き、それらの差を無くすものだ。これを入不二は、ベタ塗りという言葉で表現する。
時間にも、二つの側面があるのだ。この二つの側面も、現実の時と同じように、お互いに終わりのない運動を続けている。よって、二つの表現を同時に満たすものとして、「なるようになる」と表現出来る。
ここにきて、「あるようになる」と「なるようになる」という二つの側面が用意できた。
ここで彼の運命論の図式ができあがる。
「あるようにあり、なるようになる」=「現実」=「運命」
運命と自由
さらに面白いのが、自由と運命の関係をも扱えることだ。
「すべては運命によって決まっていた、それならば、自由はないのか?」
では、自由とは運命にとって、私たちにとって何であるのか、も考える必要がある。
実は、「自由」にも二つの側面があるのだ。
・決断できること 「何かである」自由
・他の現実への開放 「何でもあり」の自由
そして、この二つの側面が、これまた、お互いの無限運動している。それが「自由」なのだ。ここで、「運命」との共通点に気づける。
つまり、「運命」とは「自由」はであり、「自由」とは「運命」でもある。
これが、彼の運命論の行き着く先だ。
完全に運命に従うのでもなければ、運命を完全に操れるものでもない。それらは、両立しているのだ。
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まとめ
「あるようにあり、なるようになる」
この結論を、本書では論理的に導いていく。さらに、これは出発地点でもあり、様々な角度から検証されていく。その過程である、「哲学する」をじっくりと楽しめるのがこの本だ。ぜひ、読んでみてほしい。
本記事が誰かの自由につながったのなら、私はうれしい。