大いなる問い 「私たちはどこから来て、どこへ行くのか」
私は誰か?
なぜ死ぬか?
何を信じるか?
今回紹介する本の帯に書かれている問いかけです。
こんなテーマについて、誰でも考えたことがあるのではないでしょうか?
しかし、もっと真剣に、それらテーマを考えた機会は少ないのかもしれません。そもそも、考える材料を得るのが難しい分野です。ある程度の教養が染み込むまで、時間もかかります。
今回の記事では、これらテーマを考えさせられる本を紹介します。
記事を読み終えると、「私たちはどこから来て、どこへ行くのか」という大きな問いについて、さらに深く考えられるはずです。
- 大いなる問い 「私たちはどこから来て、どこへ行くのか」
- 私たちはどこから来て、どこへ行くのか:科学に「いのち」の根源を問う
- 著者について 森達也
- 長沼毅(生物学者)にきく
- 村山斉(物理学者)にきく
- 池谷裕二(脳科学者)にきく
- 竹内薫(サイエンス作家)に聞く
- 関連記事
- 教養
- まとめ
私たちはどこから来て、どこへ行くのか:科学に「いのち」の根源を問う
私たちはどこから来て、どこへ行くのか: 科学に「いのち」の根源を問う (単行本)
- 作者: 森達也
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2015/10/22
- メディア: 単行本
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今回まとめるのがこの本。
ジャーナリスト、映画監督の森達也が、一流の自然科学者たちに哲学的な問いを投げかけていく。
HowではなくWhyと問うことでみえたのは、科学者たちの葛藤や煩悶の声だった。最先端で闘う科学者たちに「いのち」の根源を問いかける、森達也の新境地!
一人一人の科学者達はやはり、膨大な科学の経験がある。謙虚で慎重でもある。そんな彼らが、哲学的な問いに対してどう答えていくのか。とても魅力的だ。全編を通して、深い議論が続く。
今回は、一部だけでもまとめてみたい。
著者について 森達也
森達也は、ドキュメンタリー映画や、鋭い日本社会批評で有名だ。オウム真理教のドキュメンタリー映画が世界的にも評価されている。彼の社会を分析する眼は、本当に重い。すごい人材だと思う。
たったひとつの「真実」なんてない: メディアは何を伝えているのか? (ちくまプリマー新書)
- 作者: 森達也
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2014/11/05
- メディア: 新書
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佐村河内氏のドキュメンタリーが最近の作品である。気になる方は、以下のような動画を見てみてほしい。
映画FAKEについては、こちらでまとめています。
長沼毅(生物学者)にきく
宇宙に生命はいるか
・あらゆる存在のエントロピーは増大する。けれど、なぜこの宇宙はその方向に進むのか?
・生命活動が小さな渦になることにより、宇宙全体のエントロピー増大を効率化させる。
・「我々は何者か?」
→生命や地球は、宇宙が早く熱的死を迎えるために存在している。生命は、宇宙のターミネーターのよう。
・「人はどこからきて、どこへ行くのか」 への、彼の答えもシンプルでいい。
村山斉(物理学者)にきく
宇宙はこれからどうなるか
・ビックバン以前は「わからない」としか言いようがない
・我々は何者なのか?
→宇宙創世記に物質と反物質がほとんど消えてしまった後に残された僅かな物質の末裔。お釣りのようなもの。
・宇宙はうまくできすぎているように見える。天文学的な偶然のおかげで、今の自分がいる。「畏怖」を感じるほどに。
・知性ある存在が宇宙をデザインしたとするインテリジェントデザイン仮説
→研究の先に、宇宙に意志を感じることもある。我々の宇宙は無数にあるうちの一つだとするマルチバースという考え方もある。
池谷裕二(脳科学者)にきく
なぜ脳はこんな問いをするのか
・脳は「自分ってなんなんだろう」という問いを考えずにはいられない。脳がそういう質問をしてしまうこと自体が鍵を握るのでは。
・言語の副作用
言語は、心の射程距離を伸ばしてくれる。しかし、本来は考えなくていいことまで考えてしまうようになった。
「自己を問う」というのは、無限ループに陥る。「自分とは何か?」の答えに対して、「その答えを出している自分とは何だろう?」と、無限後退に陥る。
無限の定義ができるのは言語だけ。言語には、文法があり、その文法は再帰性(入れ子構造)を持っている。
言語と無限、自己言及、ここら辺は関心あるテーマです!!興味ある人は次もどうぞ。
・生命がいることで、宇宙全体のエントロピー増大の効率が良くなる。私たちは宇宙を老化させるために存在する?「私たちは何のために存在するか」の答えがこれとは、身も蓋もない...
・人に似せたアンドロイドを造るモチベーションは科学的にはあまりない。性行為をすれば、子供ができるのだから。
・アイデンティティは錯覚。それを錯覚とみなす主体も錯覚。これも無限ループ。心と脳を別と考えると、心を観察する自分という発想が生まれてしまう。脳と心、機能と構造は同じもの。それらの正体は、神経活動のイオンの渦。
・科学の限界についての一言も、実に脳科学者らしい。
科学の定義は、自然現象を人に理解できる言語で記述することですから。あるいは記述できたような気になって満悦すること、と言い換えた方が正確かもしれません。
・認識するとは歪めること。そうしなけらば、人間は考えることができない。歪めるという機能が、私たちにとっての心であり、考えるプロセスそのもの。
竹内薫(サイエンス作家)に聞く
科学は何を信じるのか
・日本の科学は分業しすぎている、全体をまとめるものがいない
・日本の科学者は、自分は何のためにそれをしているのかという哲学的な問いを発しない
・超越的な存在が世界を作ったとする欧米、もともと世界はあったとする日本
・ネズミに素数という概念が無いように、人間という種の認識システムにも限界がある。だから、「神」は無くならない
人間の脳と記号体系で推測できるのはどこまでなのかということは、非常に興味深い問題だと思います。
・数学というシステムは、宇宙を完全に記述できるほど強力ではないように思える
数学という体系についての次の指摘はおもしろい。
論理的に可能性があるということは、数学的に可能性があるということです。そして、数学的に可能性があるということは、その物理理論ができるということです。
・神や大いなる意志の存在抜きに、「人はどこから来てどこへ行くのか」考えることは不可能か?
・宇宙は何者かによってデザインされたのか?現状、否定も肯定もできない
・量子のふるまいと、人間の心の不思議は似ている
・量子のふるまいと、超常現象の見え隠れ
ここら辺をまともに議論するのは、本当に難しそう。
・生命は情報だと考えられる。しかし、個人が死ねばその情報もどんどん薄まり消える。それならば、絶対的な「神」はいないのでは?
関連記事
教養
こういったテーマは、あなたの人生にとってどんな意味を持つでしょうか?
「どうでもいいよそんなこと」と思う人だってたくさんいるはずです。
しかし、中にはこんなテーマを吸収することで、より楽しく、生きやすくなれる人もいると思います。私もその一人です。
こういった教養を、私はとても大事なことだとおもっています。
教養=自分がわかること と私は定義したい。次の記事に書いています。
まとめ
・科学はhowは問えるが、whyはわからない
・先端の科学者はみな謙虚で、断定をしない
・表題のような大いなる問いについては、「わからない」
みな口々に「わからない」と、答える。そして、森達也自身も「わからない。だから、あがき続ける」と最後に表現するのが印象的だった。
やはり、科学にはある限界がある。では、それはどんな限界なのか?そして、その限界と人間はどのように付き合えばいいのか?とにかく大事なのは、どこかで思考停止してしまわないことだろう。もっと科学とは何か、哲学とは何か、考えられるはずだ。
深いテーマに触れられる、とてもいい本だった。
本ブログが誰かの自由につながったのなら、私はうれしい。