記事の内容
今回は、就活と面接について考える。
就活というイベントの意味をより根本的に考え直してみたい。
そのために、
・人間性の放棄
・商品化
・人が人を評価するということ
などのテーマに注目したい。
もう一度、本質を考えてみることで、就活について何か悩みがある人の役に立てればと思う。
就活の渦中にいれば、落ち着いて考え直すことは難しいかと思う。けれどこの記事が、あなた自身と就活を一歩引いて考えるきっかけに少しでもなったなら嬉しい。
商品化されていく「私」...
私たちは、会社の労働力になるために就活をする。
それでは、そもそも労働力になるとはどういうことだろうか?
1番大きな特徴は、自分が商品になるということだろう。
商品の特徴とは、数値で値段をつけられること。
他の商品と、入れ替え可能になること、などだ。
なんと、そこでは人間の個性は邪魔になるのだ!!
それでは、逆に「人間性」を伸ばすこととはなんだろう?
私は、リベラルアーツ、教養を重要視してきた。深い学問的な考え方、知恵を身につけることの重要性を意識してきたつもりだった。なぜならば、教養とは「私らしさ」を伸ばせるものだと思うからだ。
自分であれこれやってきて、実感したことこそ、「教養とは自分がわかることだ」というものだ。
自分自身を見つめる作業、自分の「好き」を深掘りする作業、そこで出会う歴史的に著名なすごい人物たち。彼らの知恵との相互作用の中で、いろいろな私がまさに分かってきた。
たった1つの個人である私があるのではなく、様々な人と交流する中で出てくるたくさんの私があるという「分人」という考え方も納得できた。
しかし、待っていたのは就活という儀式。
そこで求められるのは突出した個性ではない。面接官が気にいるようなストーリー、性格、キャラだ。
まるで、RPGのキャラにでもなったようだ。面接官の好きな設定にされてしまう。
そうした、設定可能性というものこそ、まさに商品だ。そこで、設定される能力は、計算可能で入れ替え可能だ。
入れ替え可能とは、「あなたの代わりはいくらでもいますよ」ということだ。
まさに、「個性、人間らしさ」とは真逆である。
こうした、社会的なキャラ付けが得意な人は、社会を生きていくのがうまいのだろう。もちろん、面接で思い悩む必要もない。(しかし、そんな彼らだって社会に馴染めば馴染むほど、「あなた」が消えていく危険性はある)
けれど、それら社会に馴染めず、どうしても納得できない人だっている。そんな人は、就活、面接という儀式の空虚さに意味を見出せない可能性がある。
自分の個性を伸ばしてきた人たち。一見、変わっている人、変人とも言われることも多い。そんな彼らの人間らしい個性は、面接という場では生かされないことが多い。 本来、人間にとって一番重要な人間らしさが、面接という儀式では邪魔になる。
なんと残酷な儀式ではないか?
AIに取って代わられる人材の再生産
現在、AIの発展が進んでいる。そんな社会では、入れ替え可能な労働力こそ、AIに取って代わられる可能性が強くなってしまう。事務作業などの単純な知識処理などが代表例だ。
しかし、日本の教育は、入れ替え可能な人材を生産し続けている。三島由紀夫は、学校教育を「空っぽのあなたを作り出す装置」と呼んだ。どうして、こんな現状が放置されているのか?
なぜならそこには、就活という儀式 (君を商品にするぞ) という1つのゴールがあったからなのだ。
労働者の生産のためにうまくできているものだな、と思う。けれど、このままで日本社会はAI時代を乗り切れるのか??という根本的な疑念がある。これについては、この先の進展を見守るしかない。
AIで置き換えられるような人間の劣化を、落合陽一、宮台真司らは危惧している。
AIと生命の違いについては次の記事も参考になる。
そもそも正当な評価なんて不可能
ここからは、人事の方に物申したいというよりも、面接がうまくいかない方へ向けて書きたい。
面接でうまくいかなかったからといって、あなたの存在が否定されているわけではない。あまり気にせず、安心してほしい。とはいっても、面接で落ち続ければ、やはりメンタル的にしんどいものだ。そんな方に、少しでも役立てるように書ければと思う。
そもそも、面接官は正当な評価などできないのだ。この根本的な原理はしっかりと押さえておくべきだろう。
人は人を客観的に評価できない。
これを示す様々な心理学的な研究成果も出ている。
人は、人と接する時、様々な心理的なバイアスからは逃れられない。
たとえば、ハロー効果というものがある。
・高学歴だから
・実績があるから
・イケメン、美女だから
これらどこかが優れていると、その人の他の能力まで優れているように見えてしまう。本来は、ある一点が優れているからといって、他の能力まで優れているとは限らない。
しかし、人事はプロなのだから、そういった心理的なバイアスも抑えることができるのではないか?、と思う人もいるかもしれない。
いや、違う。
人は自分の心理的なバイアスに気がつくことすらできない。自身の意識は、自分の無意識的な判断を、粉飾決算するのだ。私はまともに判断できている、と。
だから、自分では気づくことすらできない。
これらを裏付ける記事を二つ紹介する。
認知バイアスのヤバさと面接官のいい加減さについてだ。
・認知バイアスのヤバさ
他者への認知バイアスを必ず持ってしまうのが人間
自分の意識では、無意識くんの仕業に気づけない→認知バイアスを修正できない
他者の客観的な評価は不可能→実力なんてほとんど見てもらえない→では何が大事か?→錯覚資産だ
知能が高く、有能な人であっても、自分の無意識が、自分の知らないところで、勝手に脳内の評価値を書きかえるのを、防ぐことはできない からだ。
私の意識は、無意識を押さえつけることができない。そんな認知バイアスだらけの人という生物。彼らが、社会を作っているわけです。となると、人間の集団である社会こそ認知バイアスで汚染されまくっている。
・面接官のいい加減さ
それなら、面接の合否の最も大きな要因は何でしょうか?
それは、好感度です。
面接官への好感度がいかに高いかで決まってしまうのです。
面接官とはいえど、人の能力を客観的に測ることは不可能です。これはあらゆる心理学的な実験から明らかになっています。つまり、人が人と接する際には、必ず認知バイアスが働いてしまうのです。そして、人を評価する際に最も大きな認知バイアスこそ、好感度なのです。
面接という場のいい加減さが伝わっただろうか?(逆に、だからこそ、テクニック的に対策できる、と考える手もある)
まとめ
就活という「あなた」を消す儀式。
これは、本来相当おかしなものだ。
上から目線で面接をする人事も、人を見抜くプロでもなんでもない。
だから、就活で何かうまくいかないことがあっても、受け流してみてほしい。
せめて、あなただけは、あなたを守ってほしい。
本記事が、少しでも誰かの役に立てたならうれしい。