ヒトでなし 金剛界の章 あらすじ
今回の記事では、京極夏彦の「ヒトでなし 金剛界の章」という本を紹介する。
あらすじ
理屈も倫理も因果も呑み込む。この書は、「ヒトでなし」の「ヒトでなし」による「ヒトでなし」のための経典である――。娘を亡くし、職も失い、妻にも捨てられた。俺は、ヒトでなしなんだそうだ――。そう呟く男のもとに、一人また一人と破綻者たちが吸い寄せられる。金も、暴力も、死も、罪も――。犯罪小説であり思弁小説であり宗教小説であり諧謔小説であり、そしてなにより前代未聞のエンターテインメント小説!
amazon商品紹介より
宗教小説?
内容は、ジャンル分け不能なほどカオス。
ある1人の男を取り巻く様々な人間模様が描かれる。
そこで描かれるのは、人の心の危うさ。その危うさを、主人公の男は自身の理屈をこねながら斬っていく。
京極作品らしく、とても理屈ぽい男だ。
それら理屈により、男、そして周囲の人間の心はどう変化していくのか?そして、そこに、「死」というテーマもかかわる。
宗教小説としての特色が浮かび上がってくる。
まるで、仏陀が悟りへの道を進む過程を見せられているようだった。
もともと、普通な人としての感情や欲が薄い主人公の男、尾田。
そんな彼が、娘を失い、家族を失う。
生きることにも死ぬことにも興味がない尾田は、他人の大きな悩みを容赦なく切っていく。
他人に対する欲がない尾田の言葉は、生きることに病んだものたちの目を覚ましていく。尾田本人に、他人を救うつもりはまるでないものの、確かに彼の言葉で救われる者がいたのだ。
「人でなし」という言葉
「人でなし」という言葉は、本来マイナスなイメージで使われる。
意味は、人ではないということか?
それならば、「ヒトっぽい」とはどういうことなのだろう?
そして、「ヒトっぽくない」者は、いけない存在、悪い存在なのか??
いや、人ではないことのメリットの例もたくさんある。
ヒトっぽくない存在で、最も有名な存在こそ、キリストや仏陀などだろう。彼らの存在は、数千年を経てまで、多くの人の心を癒している。
人ではないのに、人を癒すことができる。
人ではないからこそ、人を癒すことができる、というべきか?
コミュニケーション、感情
ここで、コミュニケーション、感情の本質について抜き出しておきたい。
尾田の理屈ぽさと「人でなしさ」がかいま見える。
コミュニケーションってのは、取れないものなんだよ。気持ちなんてものはいつだって一方通行だ。他人の発するメッセージを勝手に解釈して泣いたり笑ったりしているだけだ。
「世間でもいいよ。自分と、自分以外がいるという状況こそが、まあ社会だの世間だのってことなんだろ。社会性ってのは、要は集団の中で 巧 く立ち回れるかどうかってことでしかないじゃないか。巧く立ち回るためにポジとネガを粉飾して、複雑で大仰なもんに仕立てる──それが感情だよ」
感情がないから表現できなかったのではなく、表現すること自体が感情そのものなのだ。
お前、社会を 棄てただろと荻野は言う。 「だから感情も棄てちまったようなもんなんだよ」 それはそうかもしれない。快や不快はある。でもそれだけである。後は──。 どうでもいい。
「俺」が消える
仏教では、自我へのこだわりを捨てる。そのために、様々な修行をする。
私という塊も、みな実体はなく、幻想である、と。この世に絶対的で確かなものはなにもない。ましてや、個人のこだわりなど、世界のありのままを見るのには邪魔である。
尾田という男にとって、最後まで残っていた「俺」という感覚。
それは、死んでしまう前に触れた娘の手の感触だった。
しかし、それすらも、消えることになる。
娘の命を奪った殺人者と対峙し、尾田は涙を流す。「俺」という形がやや戻ってきたのだ。
しかし、娘の命を奪った者と会話するうちに、尾田は変化する。
涙を拭うとともに、娘が握った手の感覚すら消えて無くなる。
目の前の殺人者のことなど、どうでもよくなってしまうのだ。それは、「俺」のさらなる消失を意味する。
まさに、「俺」が生まれ変わった瞬間と言えるか。後に残ったのは、「俺」でもあるけど「俺」でもない。そんな存在だろう。
「空」の思想を感じる。
この過程を目にしていた、若き修行僧たちはみな、尾田に対して頭を下げる。このシーンこそ、1人の「悟者」の誕生なのだろう。宗教小説の山場として、震えるものがあった。
この小説はシリーズになるようだ。つまり、続編がある。
「俺」を捨てた男、尾田の今後の物語に、とても期待したい。
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