記事の内容
「論理」というものは、どのように研究されてきたのだろうか??
・論理と数学の関係は?
・論理と哲学の関係は?
・論理と私たちが使う言語の関係は?
などなど、興味は尽きない。
「論理」という対象に、どこか興味を惹かれる人もいると思う。
今回の記事では、この「論理」に様々な角度から迫るいい本を紹介したい。
深掘りしていこう。
論理の哲学
・論理学と哲学
・嘘つきのパラドクス
・ソリテスパラドクス
・完全性と不完全性
・論理と数学における構成主義
・論理主義の現在
・計算と論理
・自然言語と論理
目次を見れば分かる通り、「論理」に関する様々な考察に満ちている!
数学よりな議論もあれば、哲学よりな議論もある。とくに、「計算と論理」、「自然言語と論理」については、一般的な論理学の教科書ではなかなか読めない。幅広く論理というものを考えるために、うまくまとまっている一冊だと思う。
論理と数学の「関係」こそが、この分野において長年議論されてきたことだ。数学はどこまで、論理学に還元できるのか。いくつかの標準的な見方が出来上がりつつあるが、それらを覆すような領域も研究されている。
この本では、論理と計算の関係まで網羅している。そこには、計算機の基礎という実用的にも重大なテーマがある。私たちが日々使うコンピュータの基礎を論理学が担っている。「計算するとはどういうことか」この土台には論理学がある。また、「証明とプログラムの関係」もとても興味深い。
証明という数学の話と、プログラムというコンピュータの話がどうつながっていくのか。このテーマもとても面白そう。さらに気になるかたには、次の本がおすすめだ。
今回の記事では、とくに、構成主義、直感主義という点についてまとめたい。
論理学の歴史
ラッセルのパラドクスなどの数学上のパラドクスと、嘘つきパラドクスなどの論理的なパラドクスという性格の異なるパラドクスが注目され始めた。
数学の基礎に矛盾があっては困る。数学の正しさを厳密に保証したい。フレーゲは、数学の証明を機械的に定義できるようにしたかった。そのために、証明のために使われる規則を厳密に定めるたい。形式言語を導入した。
しかし、正しい推論すべてをカバーできる規則があるのかだろうか?
論理にある制限を加えた一階述語論理では、上記のことが認められた。ゲーデルの完全性定理だ。
「論理学のための標準的な言語が存在し、それは一階述語論理の言語である」とおおよそは認められた。
このおかげで、現在販売されている教科書を開けば一階述語論理を学ぶことになる。しかし、一階述語論理も現代では「論理学」の1つでしかない。
標準的な論理に反対する考え方の一つが構成主義だ。直観主義数学という。
そこでは、排中律が否定される。すべての命題は真か偽であるとする古典論理の当たり前に疑問を投げかける。とくに、無限を数学で扱う場面では、誤った推論を導く可能性があるという。
ダメットは、世界がわれわれの認識から独立に存在しているとする実存論的立場と、世界はわれわれの認識に部分的には依存しているとする観念論的立場を整理した。そして、実在論と反実在論の対立が、古典数学と直感主義数学の対立として表れている、と指摘する。
論理と数学における構成主義
数学の基礎において色々なパラドクスが生じた。その原因は、排中律の無闇な使用にあるのではないか?
そこで考えられたのが、直観主義だ。
「AかAでないかのどちらかだ」という排中律を認めない。
くわえて、構成主義という考え方も唱えられた。数学の証明は構成的でなければならないとする。
「構成的」とは何か?
何かの存在を証明するためには、具体例を与えるか、そういう具体例をどうやって見つけるのかを示す必要がある。対象へと至る直接的な手続きの存在を要請する。
これに反するように見えるのが、背理法だ(ただし背理法全てを拒否するわけではない)。「存在しない」と仮定して矛盾が導けたとしても、それは「存在しないわけではない」ということにしかならない。この背理法を直観主義では認めない。構成的ではないからだ。
しかし、背理法が使えないのは数学にとってとんでもなく困る。「素数は無限にある」ことの証明など、基本的なところに背理法が使われているからだ。
ではどうすればいいだろうか。
実は「素数は無限にある」ことの証明は、構成的な証明に書き直すことができる。数学の歴史でも、むしろ構成的証明の方が主流だったのだという。
直観主義論理と古典論理、どちらが数学的に豊かなのか。いくつかの考え方がある。互いに翻訳することも可能だからだ。
ブラウワーの哲学
彼は、「論理」というものが数学者の活動を規制するとは考えなかった。
数学が先で、論理が後だと考えた。
これは、数学を論理に還元しようとする論理主義の立場とは反対になる。
それなら、数学の論証の客観性をどう保てばいいのか??
ブラウワーなら、数学者の経験や直観と答えるはず。言語の形式のみに注目するのは、数学の本質とは関係ない!!としたのだ。
ダメットの哲学
人間が使う文は、すべて真か偽に分かれるか?
そして、それが文の意味なのか?
ダメットは、意味の理解は顕示されなくてはいけないとした。外から判別できなくてはならない。ウィトゲンシュタインの言うように、「意味とは使用である」というわけだ。
二値原理を無制限に認めることは、意味の理解を神秘的にしてしまう。
「数学の命題が真であるとは、それが証明可能であること」という直感主義者の考えを、数学に限らず言語の意味一般にかかわる問題としてとらえなおした。
そして、それは哲学における実在論と反実在論につながる。
文の集合に属する文に対して、二値原理を認めるかどうか分けようと考えた。
認める・・・古典数学、実在論
認めない・・・反実在論、構成主義
BHK解釈
「何が証明になるか理解する」こととは、その証明がどんな仕事を果たすべきか理解すること。
BHK解釈とは、複合的な命題の証明を、その構成要素の証明を用いて説明すること。
「AならばBの証明」とは、任意に与えられたAの証明をBの証明に変換する構成のこと。
構成要素の証明に注目し、なにが「妥当な推論」なのかと解釈する。
さらに、「ならば」のBHK解釈からは、証明を「関数」のようにとらえることができる。関数を抽象化した型つきラムダ計算と、直感主義論理の自然演繹での証明図が対応する。→カリーハワード対応
ラムダ項はプログラムのもとにもなっているから、証明とプログラムの対応が見えてくることになる!!!
論理と計算、証明とプログラムの関係についてより詳しくは、次の記事がおすすめだ。
おすすめ本、記事
悲しいことに現在本書は絶版??
図書館で手に入れるのがいいと思う。
他に読みやすい本としては、次がおすすめ。
野矢茂樹の「論理学」からは、論理主義に関する一節を引用しておきたい。
数という対象を論理学に還元することはできるのだろうか。
論理主義の問題はここに集約される。
「数とは何か」。これはまた、数学は単に形式的な学問なのか、それとも実質的な学問なのかという、知の根本に関わる問いにほかならない。
いったい、自然数論は、ひいては数学は、論理学なのだろうか、それとも数という対象に関する科学なのだろうか。
・論理学超入門
次の本も、「論理」について広く学べる入門書。数式ではなく、言葉での説明が多いので、入門書として楽しめる。書き方も簡潔で読みやすい。
本格的に数理論理学を学びたいのならこちら。定評のある教科書だ。
他の記事でも、「論理」については度々紹介している。
「論理と哲学」と言ったら、あの論理哲学論考ですよね!
そして、数学と論理の一つの到達点として有名なのが、「ゲーデルの不完全性定理」ですよね。
知的好奇心の赴くままに。
次の記事で紹介している。