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【ウィトゲンシュタインはこう考えた】 偉大な哲学者の個人性からその思想に迫る

記事の内容

「ウィトゲンシュタインはこう考えた」という本の内容から、いくつかの点をまとめる。

 

完全に、ウィトゲンシュタインの哲学に興味がある人向けの記事になる。

 

・言語と論理の関係

・言語と私の関係

・私と世界の関係

 

などなど、彼の哲学に興味を惹かれて仕方がない人もいるはずだ。

 

今回の記事では、ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」(以下、論考と略す)に関係する内容をピックアップしたい。論考を一度でも読んだことがある人、これから読んでみたい人の助けになれれば嬉しい。

 

 

 

 

ウィトゲンシュタインはこう考えた 哲学的思考の全軌跡1912~1951

 

 

 

遠大な思考の果てに浮かびあがる「哲学」の姿!
これこそ真のウィトゲンシュタイン

ウィトゲンシュタイン哲学のすべてがわかる
すべてのテキストを詳細に読み直し、ウィトゲンシュタインの思考に即して再構築すると、
従来の難解な断篇の集積が、1つの大きな哲学的ドラマとして蘇ってくる。

 

『論理哲学論考』から最晩年の思索まで、すべての「遺稿」をあらたに読み直す力作。

 

 

 

個人的に、ウィトゲンシュタインの面白いところは、徹底的に「私」を突き詰めていくところだと思う。言語や論理を扱いつつも、その底には、ウィトゲンシュタイン本人の私的な営みが見え隠れする。だから、とても肉感的な深さを持った哲学として、共感を覚える者に深く刺さるのだろう。

 

彼個人の内面的な流れを重要視している本書からは、とても多くのことを学べる。

 

本書から、論考に関する部分をまとめてみたい。「論理哲学論考」に関して、何かしら知っている人以外には、意味のわからない文章が多いかとは思う。

 

 

 

 

論考の2つの謎

 

・論考は、論理に関する考察と、生と主体に関する考察からなる。しかし、この2つの主題の内的な関係は、論考には書かれていない。

 

・論理と言語の関係も謎。
論考では、大半を論理の考察にあてながら、本当の主題は言語だ、と述べる。

 

「論理とは言語の限界を確定するものである」と言える。しかし、なぜ論理によって言語の限界が画定できるのか、という問いに続いてしまう。

 

 

 

論理とは?

「論理とは何か」がウィトゲンシュタインの原点。

 

時代背景をみれば、フレーゲの論理学に影響されているのは明らか。
論理とは何かを問うことは、「論理定項は何を意味するか」を問うことになる。

 

何らかの特定の対象を指す
or
一定の対象について何かを述べているのではない

 

ウィトゲンシュタインは、後者だと考えた。
論理学や論理命題は、たしかに「何か」を語っているのであるが、通常の仕方で「何ものか」について「何事か」を語っているのではない!!!
この「語っているのではない」という感覚こそ、ウィトゲンシュタインの、論考のキモになっていく。

 

 

 

 

 

2種類の語りえないもの

 

「語ることが可能なすべてのことを語りうる言語」を極大言語と呼ぶことにする。

ウィトゲンシュタインは、我々の言語はそうだ、と考えた。

我々の言語を極大言語にしている条件こそが、「論理」だというのである!!

 

「論理学は学説ではなく、世界の鏡像である」

論理とは、語ることを可能にする超越論的条件である。

 

・示されるものと語られるもの
語ることを可能にする条件としての論理は、その言語では語ることはできない。しかし、ほんとに「論理」について語ることはできないのか?論理学のように語っているように見える営みもあるはず!

 

2種類の「語りえないもの」
・人間の思考と言語を超えた何か。言語の射程を超えている。

・言語の中に示されているが、言語によっては語りえないもの。

 

前者は、示すことも、考えることもできない!!

 

論考の「論理」は後者である。これは、「言語」ではなく、「命題」を単位としてなら、正しい解釈に見える。

しかし、ほんとうにある命題に示された論理的性質を、ほかの命題で語ることはできないのか??

「示されるもの」と「語られるもの」の区別は、ウィトゲンシュタインが言うほど絶対的なものなのか??

 

 

 

 

ウィトゲンシュタインの神秘主義

 

人間の言語は、推論形式、論理形式に自由に名を与え、使用することができる。

 

何にでも名をつけ、何についても語れること、これが極大言語としての表現力の強さだ。論考では、命題、関数に名を与えることを制限することによって、言語の能力を限定している。

 

よって、ウィトゲンシュタインの態度は、安易な神秘主義といえる。論理的思考を前提として神秘的なものの存在を示そうという試みは、完全とは言えない。

 

論理を使うことが論理を生かすことであるのに対し、論理について語ることは論理を殺すこと。しかし、「語るべきでない」と「語りえない」は同じではない。この飛躍こそ、論考のミスと言える。よって、論理と言語の限界を論証的に示すことにより、超越的存在を間接的に示そうとする「論考」の目的は、不十分である。

 

 

 

 

言語と絵画

 

言語はどのように物事を描写するか。

 

「命題は現実の像である」
命題は一種の絵画と考えていいのか?

 

絵画は否定できるか?
絵画は否定できないが、命題は否定できる。

 

論理空間とはすべての可能な思考からなる宇宙。命題によってある事態を描写するとは、1つの像を描くというよりは、思考の宇宙の中の1つの論理的場所を指定すること。

論理に映されている世界は、ありのままの世界ではない。それは、言語によって描写されうる世界。言語化された世界であり、論理空間と一致する。そして、論理空間は可能な思考と存在の限界。

 

 

 

単縦な対象とは??

 

すべての存在の本質の解明のために、単純な対象とは何か?に行き着く。

「対象とは何か?」

 

言語化された世界の最も単純な構成要素を問うことにより、語りうる事態の総体を限定したいはず。

しかし!!!論考に単純な対象の記述はない。

なぜ?

対象とはなにか?という問いには、解答不可能だとウィトゲンシュタインは考えた。

 

 

・分析的単純概念
物体や視覚像を分析し、最小単位を探る。これは、物理学や心理学などの経験科学によってのみ決定できる。


・論理的単純概念

事物を「もの」として対象化し、名前をつけること。
この対象化-命名作用によって、目の前にあるあらゆるものを対象化できる。語ることを可能にしている根本的な作用として、論理的操作と呼べる。

論考は、論理的単純概念をとる。

 

「完全に分析された」とは、そこに登場する対象がそれ以上分割できないことを意味するのではない。話者の思考において捉えられたままの対象であることを意味する。

論考の「名」と「対象」は、存在論的概念ではなく、話者の意図する思考に即した論理的概念である。その意味で、自然言語は論理的に完結している。

 

では、なぜ論考はその具体例を挙げていないのか???

 

そこで、浮上してくるのが、「私」という問題だ。

我々が何かを語る際常に「これ」や「このように」が隠されている。つまり、論理の根本のところには、「私」の作用が介在する。

 

表面的に曖昧な日常言語が「論理的に順調」であるためには、対象化-命名という論理操作を「これ」という言葉により遂行している「私」が存在しなければいけない。対象、名、単純とはすべてこうした主体としての「私」にとってのものに他ならない。名、要素命題は、各話者が具体的な場面で名を適用するまで待たなければいけない。だから、論考で具体例を示してはいない。

 

 

 

 

生世界論と倫理

 

「意味ある世界」の存在を可能とする条件が倫理である。よって、論理と同様、倫理は超越論的だ。


神とは、世界の意味の別名。よって、神は言語と思考の外にある。だから、神について考えることも語ることもできない。

しかし、こうして、神について語っているかのように見える。これこそが言語との第3の関わり方である「祈り」になる。つまり、「神を信じること」が生世界が可能となるための第一の条件なのである。

 
もう1つの条件が、自己を保ち、自分の生比較を超えた唯一のものとして生きること。これをウィトゲンシュタインは、「芸術作品のごとき唯一の生」ととらえている。

以上の2つが、ウィトゲンシュタインの倫理の根本である。

 

 

 

 

主体と独我論

 

2つの主体

・言語的主体と倫理的主体

論考には、2つの独我論が存在する。


・言語的主体と言語的独我論
「私の言語の限界が私の世界を意味する」
言語を可能にする条件としての論理にも、公的なものと私的なものがある。私的な言語の強い例こそ、「これ」という表現だ。「これ」は「私」という言語的主体を要求する。

 

そして、この「これ」の私的な内容こそ、内在的な理由によって原理的に伝達不可能だ。この伝達不可能な「何か」を認識することによって、「私」が「世界が私の世界である」ことを確信する。これが、言語的独我論である。

論考で、ウィトゲンシュタインのこの独我論が分かりづらいのは、当たり前なのだ。独我論の根本こそ、伝達不可能性なのだから。

 

・哲学的自我と倫理的主体
生世界を生き、様々な意味を帯びた行為をなす主体のこと。しかし、それは我々の前に姿をあらわすようなものではない。

この語りえなさは、論考ではかなり分かりにくい。

この宗教的自己も、神との一致という面で、「世界は私の世界である」という。宗教的独我論といえる。


言語的独我論は、世界全体を我がものにする。
宗教的独我論は、自分が世界全体の意味の源泉である、とする。


一番の違いは、排他性だ。
言語的独我論は排他性をもつが、宗教的独我論は違う。

 

 

 

 

 

おすすめ記事・本

 

本書は、もちろん後期のウィトゲンシュタインの思想にまで進む。ぜひ読んでみてほしい。

 

 

 

他にもおすすめ本を紹介する。

 

 

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