記事の内容
現状の人工知能には、何ができて何ができないのか?
それを掴むためには、「知能」ということのそもそもの考察が必要だ。
そのためのいい本を、この記事では紹介したい。知能とはなにか、人工知能の限界とは何か、いろいろな視点が得られる本である。
いくつかの論点を今回はまとめてみる。
人工知能の哲学 生命から紐解く知能の謎
本書は、生命という観点から「知能」というものを捉えなおすことを目的としている。 人工知能の実現が期待される昨今、そもそも「知能」とは何かに関する考察が置き去りにされているように感じられる。 筆者はこれまで、「生命」の根源から進化の過程を辿ることで、「知能」というものが何なのかを探ってきた。私たち人間という生命は、60兆の細胞の奏でるリズムの共創によって、一つの生命として存在している。こうした「生命」が創出する「知能」とは、どういうものだろうか。 筆者と共に、「生命」という観点から、「人工知能」について見つめ直す旅に出掛けてみませんか?
強調は私が気になった箇所。
わたしたち生命の「知」
・騙されることなしに、世界を見ることができない。世界を「主観的に作り出す」ことなしに、世界を認識できない。
・不完全情報しか得られない空間に生命は生きている。
・他者理解は、自らの身体を通しての環境との相互作用が不可欠。
・「振動」の作り出す生命現象。環境との調和的な関係を、自律的に作り出している。
「知」とは、次のような性質を持つものらしい。
身体に基づいて、「実空間」という予測不可能な環境に適応していくために必要な仕組み
カーツワイルのコンピュータの進化の主張は、こうした知の側面に注意を払っていない。とくに、「身体性」ということが、コンピュータの計算の話には全くない。
シンギュラリティ論では、計算速度の話ばかりになっている。
自動運転
完全な自動運転は不可能。
ただ、自動運転を目指すために努力する過程で得られる知見は、とても実りがあるものだろう。
実際の道路環境は、不完全な情報が多すぎる。コンピュータが、環境との調和する仕組みを取り入れない限りは、「自分の判断で運転を行う」コンピュータの実現は難しい。
現状のパラダイムでは、完全自動運転は無理そう。
それならば、あらたな人工知能のパラダイムが誕生しないだろうか?するとしても、だいぶ先の話になりそう。人類が新たな生命を作り出す可能性もある。そうなれば、「自分の判断で運転してくれる」なんらかの「知」を作れるかもしれない。しかし、そうなると、その「知」にはもう人権のような権利が生じてしまうのではないか?奴隷制度への逆戻りである。いずれにせよ、いろいろと新たな世界を見れそうだ。
現状の限界
現状のコンピュータ、弱い人工知能にできないこと。
それは、「自ら意味を作り出す」ことだという。
生命にとっては、行為の意味が欠かせない。目的を持ち、行為をする。だから、身体が基盤になる。
身体と環境との関係によって、その場その場で意味はつくられる。
生命が生きる空間は、厳密に定まっているのではなく、常に変化していく。これを、本書では「無限定空間」と呼んでいる。
無限定空間は、厳密に記述された論理の世界とは根本的に異なる!!!
「場」と「自己」は切り離せない。無限定空間では、世界を知ることと自分自身を知ることは、同時に起こる。
コンピュータは完全に論理の世界を前提に作られている。そもそも、プログラミング言語も論理学とのかかわりが深い。「記号と論理」という仮想世界を設定しているのだ。だから、論理とは何か、記号とはなにか、を考えることで、コンピュータという記号処理機械の限界を知ることは重要だと思う。理工系の学問をしていると、我々が生きている本来の世界を忘れがちである。それを自覚するためにも、広い意味での自然科学と哲学の教養が欠かせないとおもう。実際に自然の中で遊び、子どもたちと交流することもいいかもしれない。そこでは、「論理空間」の限定さが自覚できる。
私たちの認識
私たちが、「椅子を認識する」とはどういうことか??
「椅子に座って考え事する」「椅子に座って人と話す」といった「物語」を見出す、作り出す。
自分自身の物語の中に、椅子という存在を位置付けることで、自分との関係を見出す。これこそが、「意味を作り出す」ことなのではないか。
物語、か。
なんだか、とても重要な視点だと思う。そもそも、自己の定義とは、物語を持っていることと言えるかもしれない。人間の場合は、記憶がポイントになる。例えば、記憶が分断されれれば、多重人格ということにもなる。自己と記憶は切り離せない。「物語」という概念は、もっと広い。この言葉のおかげで、生きる目的などのようなより抽象的な思考を人間がすることをイメージしやすい。つまり、人間が持つ意味を活き活きと描写してくれる気がする。
こうした溢れる意味を、どう学問にしていくかがポイントになる。しかし、そうした一人称的な知を三人称化するのは、そもそも無理がある。科学の限界の話にもかかわる。
まとめ
やはり、記号と意味という対立軸が見える。
そして、生命にとっての意味という視点がもっとも大事だろう。
こうした視点での研究例もある。最後にいくつか紹介したい。
「基礎情報学」と哲学において、「意味」とはどのように扱われているのか、次の記事を見てみてほしい。
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