記事の内容
今回は、論理と哲学の関係を楽しめる本を紹介したい。
『論理学の驚き 哲学的論理学入門』という本だ。
「ゆえに」「ならば」「である」「がある」が導く、思考、言語、日常についての驚き!「哲学としての論理学」が抽象的/具体的な驚愕の世界を浮き上がらせる。
論理に興味がある人にはぴったりの本になっている。
今回の記事では、本書から何点かまとめてみる。それでは、目次をどうぞ。
「規範学」としての論理学
論理学とは、論理に注目する。
言いかえると、推論するときの筋道の正しさに焦点を当てる。「方法」が対象になっている。
そうした筋道が正しいことを、論理学では「妥当である」という。
さらにポイントがある。
論理学は、他の科学のような事実の調査ではない。「どう推論するべきか」についての学問だ。つまり、規範学の一種なのだ。
だから、規則適用という規範のかたまりである言語を論理学は土台にしていくことになる。
「である」を集合論的に深掘る
「である」は多義的。だから、そのままでは論理語としては曖昧。
「である」を分類してみると、次の3つになる。
・同一性
・個体と集合の要素関係
・集合と集合の包含関係
しかし、はみ出るものがある。
「赤は色である」
「色は性質である」
性質について述べる命題と、性質を有する対象の集合について述べる命題にはズレが出てしまう。
このズレをさらに深掘りするのが学問。
集合論に合わせるために、性質を分類してみる。
真紅などの確定者
赤、色などの確定可能者
確定者を集合の要素になるものとする。そうすると、集合論的枠組みを維持できる。
しかし、要素としての「真紅という性質」とはなんなのか?
集合論は、原子論的な発想に基づいている。最も基本的な要素だけが実在する、とする見方も強い。
要素と抽象的対象とは、分けていいものなのだろうか?
要素関係ではなく、部分関係に注目するメレオロジーという考え方もある。部分関係のおかげで、推移性が考えやすい。確定者と確定可能者をそれぞれ性質と集合という異なる種類の対象として分けることなく、同種のものとして一元的に扱えることになる。
さらに、性質にも2つの観点がある。
「豊臣秀吉はたくましい」
「豊臣秀吉はすぐ怒る」
「豊臣秀吉は人間である」
「豊臣秀吉は武士である」
上の命題は、さまざまなあり方のひとつに関するもの。下の命題は、それを個体として成立させる何か。
いかにあるか how it is
何であるか what it is
哲学における論理学では、この二つの区別は論理的に重要になる可能性がある。
「ある」 存在の分析
「存在する」という述語は、他の述語と同じように使うべきではない。
なぜならば、神の存在証明のような違和感ある論証が正しいことになってしまうからだ。
「優しい」などの普通の述語と違って、「存在する」という述語は、述語と述語をつなぐ論理語である。それは、規定そのものの設定に関わる概念なのだ。
現代論理学では、「すべての〜」と「〜が存在する」という述語を論理語として扱う。
そこでは、存在するということの意味は次のようになる。
「xは神である」という命題が、一つの例によって真になる。そのことを存在すると定義する。
存在するという概念を、個体の性質、集合について限定する。
〈何ものかによって実現されている〉という性質を持っていることの主張である。メタ的な主張なのだ。
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