記事の内容
法やルール。
それは、私たちが日常を過ごすうえで欠かせないものだ。
しかし、常識をそのまま受け入れていていいのか。当たり前に感じているルールの根拠も疑ってみるべきではないか。
私たちが従っている法には、納得できる根拠があるのか?
こうした問いを楽しむことができる本を今回は紹介したい。『あぶない法哲学 常識に盾突く思考のレッスン』という本だ。
- 記事の内容
- あぶない法哲学 常識に盾突く思考のレッスン
- 法律に正しさを期待していいのか?
- 正しさと法
- 人類がエゾシカのように駆逐される日
- どこまでが私の所有物か?
- 私には「誰かに食べられる自由」がある?
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あぶない法哲学 常識に盾突く思考のレッスン
私が自由意思で自分の臓器を売ることがなぜ禁じられるのか?
ギャグに著作権を認めたらどうなる?
カジノは合法なのに賭け麻雀が違法なのはなぜ?
全人類に共通の良心なんてある?法と道徳、功利主義、人権、国家、自由、平等……私たちが生きていくうえで目をそらさずに考えたい「法哲学の問い」を、たくさんの具体例を紹介しながらわかりやすく解説!青山学院大学の“個性派教授”による、読んで楽しい法哲学教室!
法の根拠をめぐる旅を楽しめる。ただし、タイトルにもある通り、本書の方針は常識的な考え方を批判することだ。批判する方へと議論が進んでいく。
法の根幹にある概念は様々だ。自由とは何か、正義とは何か、国家とはなにか、政治とは何か、平等とはなにか、などいろいろなテーマと重なり合っている。
法を作るためには、複雑にからまっているものを一応のルールとしてまとめ上げなくてはいけない。想像するだけで難解な作業だ。この人類の格闘の歴史は凄い。先人たちが知恵を振り絞ってくれたのだ。
そして、大事なことは、法の歴史は未完成だということ。常に進化させなければいけない。だからこそ、その根源を問い直す作業が常に要請される。
法を守ることに強制的に参加させられている現代人だからこそ、本書のような知恵は欠かせないと思う。
それでは、何点か本書からまとめたい。
法律に正しさを期待していいのか?
法と道徳、つまり正しさとの関係はどうなっているのか。
法を正しさから切り離す。根拠から導く手続きの有効性のみによって、法を正当化する流派がある。有効性の根拠を遡っていけば底に行き着く。根本規範と呼ばれる。
これは、根拠を与えられない、説明ができない端的な前提のことだ。だからこそ、根本規範は信仰対象のようなものだと言える。
だから、根本規範は絶対ではない。文化や歴史によって異なる。さらに、革命などによりガラリと変化する可能性もある。このように暴力が法の起源になることは多い。暴力的な革命により新たな制度が誕生する。よくある歴史だ。
法と正しさが連動していないならば、法により社会が壊れる可能性もある。法化が進むことで、ルールに則った対決でしか人と関われない人が出てくるのではないか。
著者は、法だけが解決のための手段ではないと強調する。あくまでも法も相対的に見るべきだ。
正しさと法
国家と暴力団はどう違うのか?
国家には主権がある。その主権が支配を正当化させる。しかし、主権にも制約がつく。所有権の絶対などの方が根本的なものだ、と。それならば、税を集めるのは所有権違反ではないか。この議論に明解な答えはない。
正しさに訴える法は、自然法論と呼ばれる。法の根拠は、「人間の本性」によって与えられる。しかし、この概念は主観的すぎる。だから、現在では自然法論は主流ではない。
現在は、科学技術に立法が追いついていない。そういった時、方針を与える必要がある。ここでは、自然法論で考えられていたことが役に立つ。中心的な概念は、人間の尊厳だ。この概念は2通りに解釈できる。
人間に固有に備わっているなんらかの実質的価値を守ることなのか、個人の自律的な思考と行動を最優先することなのか。
個人を超えた価値か、個人の人間性そのものか、という対立だ。ここが基礎になる。
人類がエゾシカのように駆逐される日
・動物に権利はある?
・あなたの人権は「極限状況」でも守られるか?
本書は、らあの名作漫画『寄生獣』のセリフを引用している。
「おまえに生きる権利があるというなら 寄生生物にもその権利があるもっとも「権利」なんていう発想自体 人間特有のものだろうがね」
人間界での権利とは弱者を守るためのもの。しかし、動物界では弱者は淘汰されるのが自然。権利は生じえない?
動物が持つ権利は、人間にとって都合のいいものだけだ。
人権すら普遍的ではなく恣意的なもの。安定するように見えるのは、比較的世界秩序の方が安定できているから。人権は、国家や裁判所がなければ機能しない。
しかし、人権なんて認められないような極限的な状況でさえ、自己保存の権利があるという。個人は、生き延びるためにあれこれしていいという権利がある。
では、その極限状態はどうジャッジされるのか。そうした極限的な状況から離れる。そして、秩序ある状況で後からその現場を眺めたとき、人権が復活する。規範としてだ。
人権を守る義務を持つのはおもに政府であり、かつ人権は、極限状況で私人間で起こった出来事に対して、事後に裁判で用いられる規範概念であるということができる。一般の人々も、諸機関も、企業もできる限り皆の人権を守るべきだという規範的要求が可能なのは、人類が君臨して国家を作り、国際社会がまあまあ機能している状況に限られるのだ。
どこまでが私の所有物か?
・自分の意思で臓器を売るのはなぜダメなのか?
・自由を放棄する自由も認めるべき?
所有権とは、「私の身体は私そのものである」という素朴な直感で捉えていい。だから、他人からの介入の排除が導かれる。
著者は、臓器を売ることに反対する根拠は弱いとする。
・物である臓器に金銭的な対価をつけてはならない根拠はない
・臓器の商品化が社会的悪影響をもとらすという根拠はない
そして、臓器を売るのなら適切な対価を保証するべきだと考える。
自由であることを放棄する自由を認めない理由はない。
ただし、現在の私が過去の私に束縛されないという条件は欠かせない。現在の自分は、将来の自分にとって他者なのだ。
人格の同一性がテーマになる。しかし、これでは過去に結んだ契約を未来に破棄していいことにならないか?本書では、ここに回答を与えていない。
こうしたテーマになると、一気に哲学度が上がる印象。脳科学、認知科学の進展により「私の哲学」も変化していく。こうした抽象度が高い議論を、どう日常的な常識と近づけていくのか、とても大きな難問だと感じる。法がどう変化していくのか、とても気になる。
私には「誰かに食べられる自由」がある?
・愚かな行為をする権利はどこまで認められるか?
・あなたは飼い犬より自由か?
他者に危害を加えない限りは、死につながるかもしれないような選択も、自由に行使できる。たとえば、自分の信条のもと輸血を拒むことができる。
危害を与えないまでも、不快感を与えてしまう場合はどうか?
ゴミ屋敷やハトへの餌やりは、深刻な不快につながるため規制できる根拠もある。
実際にドイツであったケースだが、自分を殺して食べてくれと頼み、その通りにしてもらった人がいる。刑法の殺人罪で裁かれた。しかし、自由権の行使という点から見れば、問題はなさそうだ。
そもそも、私たちの選択はどこまで自由なのか?義務教育、会社などは、自ら考えさせないように人を訓練する。日本人は家畜化されているという側面はある。
さらに、根源的な問いは人の自由意志についてだ。脳科学の実験では、自由意志を否定する結果も出ている。それならば、潜在意識の方を管理する社会になればいいのか?そこでは、法律や道徳といった規範が存在理由を失うだろう。
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