記事の内容
今回は、知的にとんでもなくエキサイティングな本を紹介します。『現実とはなにか』という本です。
私たちが生きるこの現実を徹底的に見つめることで、現実の根本的な成り立ちを分析します。
そこでは、量子論や数学、そして、現象学に共通するとある構造が浮かび上がってきます。その普遍的な構造を表現するための概念として、数学の圏論が役に立ちます。
この本で議論されるテーマは、現実に関する常識を破壊してくれるものです。それは、とても新鮮な見方でありつつも、どこか身近で納得感のあるものとなっています。
今回の記事では、本書から中心的なテーマをまとめさせてもらいます。目次をみて興味がわいた方は、ぜひ読んでみてください。
- 記事の内容
- 〈現実〉とは何か 数学・哲学から始まる世界像の転換
- 1 実体から不定元へ
- 2 数学とは何をすることなのか?
- 3 現れることの理論
- 4自然変換と「私」
- 5自由から現実をとらえ直す
- まとめ
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〈現実〉とは何か 数学・哲学から始まる世界像の転換
「現われの学」としての現象学と、「同じさの数学」としての圏論がひとつになる。思考と生、その両方に関わる根本原理を追究した画期的試論。
第1章 実体から不定元へ―「量子場」概念の根本的再考(「場」とは何か―二重スリットの実験から
粒子も場も実体ではない―真に現われているものへ ほか)
第2章 「数学」とは何をすることなのか―非規準的選択(数学における非規準的選択
非規準的選択と普遍性 ほか)
第3章 「現われること」の理論―現象学と圏論(現象学における「変わらないもの」
圏から「同じもの」へ ほか)
第4章 置き換え可能性から自由へ―現実論のポテンシャル(再び置き換え可能性をめぐって
「私」―「自己」の問題 ほか)
第5章 “自由”から現実を捉えなおす―決定論から非可換確率論へ(決定論を吟味する
因果のなかでの自由―現実の一般構造 ほか)
本書から、ベーシックとなるアイデアをまとめる。メモのような書き方になってしまうので、この記事だけで理解に至るのは難しいと思う。
本書を買うか迷っている方には雰囲気を掴んでもらうために、すでに読んでいる人は理解の補助のために使ってもらえたなら嬉しい。
とくに、各テーマについて、思考の出発点となる問いに注目している。こうした問いに共感することが、議論を実感することにつながると思う。
1 実体から不定元へ
徹底的に現実を見る。つまり、量子論、場の量子論を徹底的に考察することにより、現実とは何かを捉える。その結果、行き着くのは、現実とは不定元である、という洞察だ。
粒子も場も実体ではない
粒子は場の励起である。
しかし、場は目に見えない。
・「物」ではないものが「ある」とはどういうことか?
・そもそも「物」とは何か?
「物」より普遍的な何かがある。ただし、実体論の方向に行ってはいけない。
粒子か場が実体であるという見方は、「現象に即す」という態度と両立しない。「場が粒子になる」という現れを徹底的に考えることが、現象に即すという態度だ。
決定論的で同一的なものこそが、物理学の探究すべき「現実」であるという仮定が、物理学の前提になっていないか?
法則とは何か? 問いがなければ答えはない
法則というのは、「二度と繰り返すことのできない」出来事間の関係である。ここに、異なるものを同じものとしてみる「置き換え」がある。
・法則を成り立たせる根拠は、その法則の中に書き込まれているのだろうか?
「こうすればこうなる」という形で、条件と法則は一体になっている。自然は、何らかの問いかけに対してのみ答えを与えてくれる。
法則を生み出す根拠は、法則の中では書ききれない。ここに、2重の「書ききれないこと」がある。法則が決まってもどの選択肢が実現するかは分からない。どの条件を用意するか、法則には書ききれない。
結果が欲しければ、私たちの手で条件を選ぶ必要がある。そして、どの条件を選ぶべきかを指定する法則なんてものはない。
つまり、私たちの問いがあって法則がある。問いがなければ答えはない。
現実=数学になる理由
場は不定だが、一定の仕方で問いかければ答えてくれる。粒子にならないと私たちにとっては答えにならない。つまり、実体を考えるのではなく、ここで見逃してはならないのは、「粒子になる」という出来事である。
「それ自体としてつかめない」ということこそ、自然そのものの本来的な現われ方なのだ!
・現れているのにつかめない、なんてありえるの?
「場が粒子になる」という結果からは、「現れているがつかめない、つかめないが現れている」という出来事が自然そのものの核心である、と導ける。
・数学における不定元って?
「値を取る」というということをあらかじめ仮定せずに厳密な議論ができるという考え方。数学は確定した体系なのではと思ってしまうが、数学とは本質的に「不定」を抱えている。
・結局、現実てなんなの?
現実とは不定元である。
場とは、自然の認識における数学の「不定元」であるのではないか。現実がまさに不定元として現れてくる。こうして、数学と現実の壁は消える。
2 数学とは何をすることなのか?
非規準的選択
方程式を立てるために、不定元を利用する。
数を定義するために、具体的な数え方から始める。
・何かを選ばなければならないが、一義的に決まるわけではない
・最初にある特定の仕方で何かを始めなければならないのだが、それが為されたときには、すでにその特定性は消えている
数学者が現に行っているのに、数学的には確定できないような選択がある。これを、非規準的選択と呼ぶ。
数学という普遍性は、この非規準的選択を通してしか成立しない。
普遍性に至るためには、まず何かあるものを選択することから始めて、その選択を自ら消去するというプロセスが欠かせない。
選ぶことにおいてのみ、どちらでもよいことがわかり、それが分かった時には、最初に「どちらを選んだか」は特別な性格を失う。
一般構造
多様な表現を通して「同じこと」をつかむ。
1+1=2という本質を表すために、その表現は10進数や2進数、その他の表現でもかまわない。
なんらかの記号的な表現によって出発するしかないのだが、その活動の中で、この特定の表現は置き換え可能になる。
置き換え可能であること自体が、非規準的なものを「消す」という動的な働きとして成り立っている。
この出来事こそ、数学だけでなく、空間や時間といったより普遍的なものの根底にあるのではないか。
また、数学的な真理も、問い=前提から導かれる。真理すら、非規準的選択からなる出来事なのだ。
3 現れることの理論
現象学における「変わらないもの」
・「物」が「変わらずに」あるとはどういうことか?
フッサール
「神でさえ物全ての面を同時に見ることはできない」
現れから切り離された「物そのもの」はない。
物は、現れの変化の中にはじめて見えてくる。視点の動きと現れの変化が対応している。合成も、逆にする動きも、対応している。
「変化」こそが「同じもの」を成り立たせる。
現われの変化が織りなすシステムをつかんだとき、われわれは「同一の物」をつかんだと思うのである。
p98
「同じもの」とは?圏から定義し直す
「動き」「変化」を矢印のように見立て、そのネットワークを考えるのが圏論だ。
その矢印を射という。
現れ・・・対象
現れの変化・・・射
「動き」のようなものにおいて自然に成り立っている関係を、圏論では結合律によって表現する。
・圏論における同型
「不可逆性を通じて現れる可逆性」
不可逆性をもとにして、その特殊例として可逆性を考えることができる。行って戻れる可逆な矢印があることが同型だが、本質的な同じさを示している。合成すると「何もしない」と同じになるという意味で「行って戻れる」可逆な矢印がある場合のことである。対象も違うし動きも不可逆なのに、というところがポイントだ。
・「同じもの」の正体
人間が「同じもの」をとらえているとき、いつも「多様な現れの間のプロセスの可逆性」という現象が起こっている。これが同じものの正体だ。サイコロにおいて、同じ目は、何度も振ってみないと確認できない。「異」な多様な現れの中に「同」が現れ出てくるわけだ。つまり、絶対的な同じさではない。
圏論については、この記事だけで数学的な基礎を説明するのは難しい。あくまでも、雰囲気を知ってもらえればうれしい。圏論そのものの基礎が気になる方は、次の記事がおすすめだ。
「2」や「3」の正体とは?
数学は、「より緩い同じさを発見する」ことによって発展してきた。数学とは、難しい問題を「本質的に同じ」易しい問題に言い換えていくことでもある。
たとえば、リンゴが2個あることと、オレンジが2個あることは、どのようにして「=」という関係だとみなされるのか?
物の集まりに関する同型が根拠だ。
そして、同型、無数のものの間に見られるネットワークこそが、「2」と名付けられているものの正体である。
だから、「=」の由来は「ネットワークのネットワーク」である、といえる。
無数のもののネットワークと、無数のもののネットワークが、さらにネットワークを成す、という目も眩むような関係性の「かたち」が、2+3=5という単純な形に集約されているのである。
p117
「=」とは、ネットワークとネットワークの間を自由に行き来することが可能になるイメージだ。
「現れること」の理論の根本にある自然変換
自然変換という概念を定義するために、圏論は準備された。圏と圏の間のある関係が関手であり、理解、翻訳、モデル化のようなものだ。そして、異なる「理解」や「翻訳」間の橋渡しのようなものも考えられる。自然変換だ。
関手とは、まさに圏が圏に現れる、その「現われ」である。そして、その「現われの変化(動き・プロセス)」が自然変換ということになる。
・関手の例
地図を用いて現実の土地を歩いていく、その歩みの現実化、対応。
「現れの変化」こそが、実は存在論的には「最初」にくるものではないか。変化、動き、プロセス、媒介こそ、根本なのでは!!!
「現われ」について考えていくうちにその現われが変化していく、その流れにおいて「同じさ」が現れてくるのである。これこそ、自然変換を通じて関手間の「同じさ」が現れてくる、という数学的構造を手がかりとしてわれわれが照らし出そうとしてきた構造=出来事にほかならない。
p130
自然変換を通じて、関手間の「同じさ」が現れてくる。個々の現れによることなくしてはとらえられないが、また個々の現れに固着することによっても捉えられない。
真理は個々のものを解放しながら生かしていくような「変換」そのもののうちにあるのではないか。
p134
個々のものをおろそかにしない、かつ、個々のものにこだわったら成り立たない。
4自然変換と「私」
個であることが普遍的な性格をもつ。
私であるということは交換不可能だが、誰もがこうした意味での「私」である。
「私」というのはある種の自然変換。つねにある個体的で具体的な関手の実現に即してしかありえない。
自らが置き換え不可能であるということそれ自体の置き換え可能性が、「私」である。
5自由から現実をとらえ直す
自由は具体的な自由としてしかありえない。ある個別的で具体的な立脚点・出発点があり、しかもそこにこだわらずに、それとは異なる何かへと具体的に進むことにおいてのみ、「自由」と言いうるような事柄が現れてくる。抽象的な「自由」とは自由ではなく単なる無規定性である。一歩進めることの絶対的な非規準性、何であるかは指定されていないが、何かをつかみ、何かに決めることこそ、具体的な意味で「自由」と呼びうる事柄である。
p 231
自由とは、主体的な実践とともにある。そして、その自由さは普遍さにつながる。
著者は、普遍的であるためには実践的でなければならない、と述べる。
自然変換=現実ということを念頭におけば、固定されていたり、何でもありな「自由」という常識的な概念は、アップデートされる。
自由とは、抽象的な概念なのではなく、個人的な実践に条件づけられるもの。そして、そこに私たちの現実が現れてくるわけだ。
まとめ
本書は、こうした現実観、つまり自然変換としての構造を示してくれる。
そして、繰り返し強調しているのが、「個々のものをおろそかにしない、かつ、個々のものにこだわったら成り立たない」という概念だ。現実をそのまま受け取ると、たしかにそうなっているな、と物理でも数学でも導ける。
ここが腑に落ちるかどうか、が本書の評価を決めると思う。哲学や、圏論、東洋思想、仏教哲学に造詣がある方は、とても腑に落ちる話だとおもう。
本書では、さらにこうした現実観から、「自由」という概念の再定義に進んでいく。この議論もとても刺激的である。ぜひ気になる方は、実際に本書へと進んでみてほしい。
圏論についてより興味がわいた方は、まずは以下のような入門者向けの本へとすすんでみるのがいいと思う。
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