記事の内容
今回は、とても不可思議な結論へといたってしまうパラドックスを紹介します。
私たちは言葉に意味をもたせることも、規則に従うこともできないというものです。
かなりヤバいパラドクスですよね。
この結論へと至る精密な議論をたどることで、哲学的思考力も養えるはずです。本当の意味で、哲学をたのしめる感覚がわかるでしょう。
それでは、目次をごらんください。
規則と意味のパラドックス 飯田隆
言葉はそもそも意味をもちうるのか?言語を通したコミュニケーションを可能にする「規則」に、私たちは従うことができるのだろうか?クリプキはウィトゲンシュタインのなかに、こうした問いに否と答える驚くべき議論を見出した。それによれば、私たちが自明のものとして使用する「プラス」のような記号でさえ、「68+57=5」という奇妙な結果に導く可能性を否定することはできないのだ。言語に内在するこうしたパラドックスをいかに解決することができるのか。日本を代表する言語哲学者が切れ味抜群の議論で謎に挑む。哲学的思考への最強の入門書。
言語哲学者、分析哲学者として有名な飯田隆の本。
哲学的思考への最強の入門書というフレーズは伊達じゃない。
本書を強くおすすめしたい理由は、驚愕的な結論へ至るその道筋をたどることで、哲学的思考を鍛えられる点だ。ぜひチャレンジしてみてほしい。
規則に従うことができるという証拠はない!!
「68+57=5だ!!」
本書に登場する疑り深い哲学者は、上のようなことを言い出す。それに対して、だれでも、いや「+」の意味が間違っている、というだろう。しかし実は、私たちがこれまで足し算をするときに特定の規則に従ってきたという事実は、どこにも見出すことができないのだ。
・私がこれまで「+」でプラスのことを意味してきたということを、どうして私は知っているのか?
言いかえれば、
・私はこれまで「+」でクワスのことを意味してきた(68+57=5となるような「+」演算のことをクワス算と呼ぼう)
という主張を否定しなければいけない。
しかし、その正誤を成り立たせる事実そのものがないのだ!!つまり、言葉で何かを意味してきたという事実はない。思い込みに過ぎない。
行動的、外的な事実もないし、私の個人的な心的事実もない。
正常に私は規則に従い、言葉で「+」を意味してきたということの証拠を挙げることが全然できない。いやそんなことはない、と常識的にはいろいろと反論するのだが、すべて論破されてしまう。この議論こそ、まさに哲学的思考が鍛えられるところだ。この点でも、本書は非常におすすめだ。
まとめると、規則に従うことについての論破からは次のような衝撃的な結論が導かれてしまう。(ぜひ、論理的に論破される経験を本書を読んで体験してみてほしい。あなたの哲学的思考力が高まるはずだ)
・言葉で何かを私が意味してきたというような事実はない
・それどころか、そもそも言葉が意味をもつという事実からしてありえない
懐疑的解決
以上の議論をうけいれ、意味について語ることをやめるべきだ、と考える派もある。しかし、この議論をうけいれつつ、懐疑的解決と呼ばれる抜け道がある。
言葉は何も意味しない、という点には注意。言葉の意味についての事実といったものは存在しないから、言葉の意味について語ることは事実について語ることではない、と解釈するべき。
それならば、意味についての言明とはどんな種類の言明か??
世界の側に投影されたわれわれの態度について語る言明だとする。
そして、懐疑的解決と呼ばれる対処は、私以外の人が私の言葉を受け入れてくれることによって、私の言葉は意味をもつ、と考える。
しかし、証拠がありえないにもかかわらず、もつことのできる知識なんてものには、やはりまだ不思議が残る。結局、人はどうして自分の心を知りうるのかという問いに行きついてしまう。
規則のパラドックス
さらに、本書はもうひとつの驚愕的なパラドクスへとすすむ。それは、規則のパラドックスと呼ばれるものだ。
わたしたちは、規則に従うことも、従わないこともできない、というものである。いいかえれば、どんなことをしても決まりを守ったことになってしまうのだ。例えば、赤信号で進んだとしても、決まりを守ったことになってしまう!!!
この解決のために、著者は「意図」を分析している。
わたしたちは、自分自身の意図や希望や恐れを、観察や証拠にもとづいて知るわけではない。それならば、意図のような心の知り方とはいったいなんなのだろう?またまた、人はどうして自分の心を知りうるのかという問いに行きついてしまう。
ここで、もう一つの規則のパラドックスの存在も紹介される。推論も規則に従う活動であることから、自然に導かれることだ。簡単な三段論法でも、一つの推論に従うためには、無限回推論が必要になってしまう。規則がたとえわかっていたとしても、実際にそれを使うことは不可能になる。
しかし、人はあたりまえに規則を生活の中で使っているようにみえる。
規則への参照がされないのに、規則に従うことがどうして可能か?
著者は、その根拠に「技能知」をもちだす。言語で説明することが難しい技術、自転車の乗り方という例がわかりやすい。
しかし、技能知となにか?、自身の技能知についての知識がいかにして可能か?というあらたな問いにぶつかってしまう。
知識の根底には何があるのか、という大きな問いが見えてくる。
論理と規則
クワインは規約主義を批判した。
規約主義とは、我々の言葉の使い方の取り決めから論理的真理が定義される、と考えることだ。
しかし、規約から論理を引き出すのには、論理が必要になってしまう。
クワインの論点は、論理的推論が常に規約の参照を必要とするのならば、論理の全体を規約に基けることはできない。規則のパラドックスも踏まえると、最も基本的な推論においては、明示的規則は何の働きもしてくれない。
これは、論理的公理や推論規則を形式的に規定さえすれば、論理を定義できると考えることのミスを示す。
人工知能と論理
以下、個人的に考えてみたい。
コンピュータサイエンスの基礎には、論理学がある。推論の形式化だ。
しかし、本書での議論から分かる通り、論理と人間は切り離せない。生きた人間の技能知が論理の底にはあるからだ。
それならば、コンピュータは、そして、コンピュータによって構成される人工知能は、初めから底が抜けていることになる。
人間なら誰でも持っている論理の基礎が抜けた人工知能を、人間のように知的にさせようとしている。
ここに限界がある。
この限界を超えるには、人間や生物の身体知に帰る必要があると思う。そして、本書でも、他人との関係に行き着いたとおり、「他者」「社会」という観点が欠かせないと思う。
次の記事が参考になると思う。
より詳しい議論はぜひ本書を読んでみてほしい。
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