記事の内容
今回は、仏教、瞑想、悟りについてのおすすめ本を紹介したい。『なぜ今、仏教なのか 瞑想・マインドフルネス・悟りの科学』という本だ。
本書の解説として、仏教の専門家でもある角川祐司氏が、内容を簡単にまとめてくれている。
まとめると本書は、(一)現代人の一人として仏教者でない人々とも感覚を共有する著者が自ら瞑想を実践し、(二)仏教の説く「真理」を科学的な知見を裏づけとしつつ語り直して、(三)さらにその実践と哲学を、究極的には単なる「いやしの道具」としてではなく、むしろ「精神的」な探求の道として、私たちに提示しようとする著作である。
そして、本書のもう一つのユニークな特徴は、私たちが錯覚にまみれ、苦しんでしまうことの起源に迫っていることだ。
そのための道具が進化心理学である。私たちの脳と心は、進化を繰り返すことで、生存に有利になるように設計されていったと考える。
本書では、仏陀も語らなかった心の起源に言及することにより、私たちの心の性質を解体する。著者の科学的な知見が強力にバックアップしてくれる。
それでは、何点か内容をまとめたい。
進化心理学、自然選択
一見、不自然に見える脳の性質を、進化論の観点から説明してくれる。
ここでいう進化論の観点とは、自然選択のことだ。
生き残りやすい性質を持った個体が実際に生き残ることで、子孫たちにその性質が残る。進化の繰り返しの中で生き残らなかった性質は、勝手に消えていくわけだ。
つまり、私たちの日常の思考は、実はすべて「生殖」と「生存」に役立つように設計されているのだ。(私たちのありありとした感情まで、すべて生存と生殖に還元されるなんて...と受け入れられない気持ちもある)
この理屈はシンプルな分、とても強力だ。自然選択は、私たちの脳と心の成り立ちを説明する有力な説と言える。
仏教も、現代の心理学も、主体的で確固たる「自我」を否定する。
自我が私自身をしっかりとコントロールできているという錯覚を、なぜ人間は持つようになったのか?
自然選択の観点から言えば、そうした性質を持つ個体の方が生存に有利だったから、というものだ。主体性があると強く信じられる方が、人間の集団の中では有利だったと考えられる。
心のなりたち
「心のモジュール説」と仏教の瞑想とは相性がいいという。
心のモジュール説は、進化論的にも有力な説だ。心は、専門的な機能をもつ多数の部分が相互作用している。ただし、相互作用の仕方は単純で独立的ではなく、重なり合うネットワーク的のようなものだと考えられている。
「脳内では食うか食われるかの世界がくり広げられ、異なるシステムがなんとか表面に浮上して意識に認識されるという褒美を勝ちとろうと競いあっている(* 19)」
私たちの自我とは、そうしたシステムたちの結果の影のようなものなのだ。
瞑想と思考
思考は、私たちの自我の本体なのだろうか?
瞑想体験を続けていけば、この問いにノーと答えることになる。
思考とは、私に「訪れる」ものなのだ。思考=私なのではない。
ある感覚を発端に、ある心のモジュールが強くなっていく。そうした無意識レベルでの処理が進むと、その結果が私の意識に顔を出す。
瞑想に熟達していくと、この処理のプロセスを明晰に眺められるようになるのだ。
思考は実際には私たちが自我だと思っているものに向けられたものであるらしい。私たちはその思考を自我に属するものとして受け入れているということになる。これも、モジュールが意識の外で思考を生みだし、なんらかの方法でその思考を意識に注入するという考え方と一致するように見える。
しかし、瞑想中に心を観察している人にとってはまるで「思考がみずからを思考する」ように見えるだろうことは想像がつく。モジュールは意識の外で仕事をするため、意識ある心の知るかぎりでは思考はどこからともなくやってくるからだ。
「思考がやってくる」という感覚。これが瞑想中の体験である。
この感覚こそ、ふつうに生きていたらまず体感できないものだろう。それくらい、感覚や思考は、この私と一体化してしまっている。進化の観点から見るならば、そういう風になっている人間は生き残りやすかったのだ。自然選択の結果により、本能レベルで人はそのようにできている。だからこそ、瞑想で覆すことは難しい。
まとめ
瞑想の効果と、瞑想の上達過程について言葉で確認したい人には、ぴったりな本だと思う。ぜひ、本書へと進んでみてほしい。
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