記事の内容
現在の資本主義社会を相対化する視点を得られる本を紹介します。
タイトルは、『資本主義に出口はあるか』という本です。
現在出来上がっているこの社会を、ロックとルソーという対立軸の流れで読み解きます。資本主義を分析するために、経済学だけではなく、その背景にある思想や文化の動きに注目している点が特徴です。この観点からは、とても学びが得られる本でしょう。
ロックとルソーが考えた「自由」と「平等」という概念とはなんなのか。そして、それらをどのように再定義すればいいのか。
それでは、本書から、何点かまとめていきます。
ロックとルソーの自由と平等
「ネオリベラリズム」という現象を見ると、従来の「右/左」という軸では訳が分からなくなる。保守を代表する政党が、リベラルな政策を実現するために改革をする??整理できない。
そこで、著者は次の軸を提案する。
右に対応するのがロック
左に対応するのがルソー
ロックの平等
生まれや出自によって、人間を差別してはいけない。ここに機会の平等は含まれるが、結果の平等は含まれていない。ルソーの平等は、結果の平等のことであり、全体を考慮した不平等の是正が行われる。
ルソーにおける自由
自分が自分だけで決めることができること。ただし、一般意志、つまり共同体に共有されるような「自分」に従うこと。だから、共同体の法に従うことこそ、真の自由になる。〜への自由、積極的自由になる。
一方、ロックの自由は、〜からの自由、つまり消極的自由のこと。
資本主義社会の前提
・ロックの自由のデメリット
個々人の分断と市場の道徳への服従
・ルソーの自由のデメリット
一般意志の占有
それならば、ロック、ルソーに共通するような前提は何か?
それは、「私」の存在だ。
こういうと、一気に哲学的な香りがしてくる。もっと具体的に探ってみよう。
社会は、すべての人々のそれぞれの「私」を基礎に成り立っている。個人が自らの意志で契約して作られるものが社会なのだ。
「私」という罠
この「私」と社会分業制との関係をみる。
それぞれの人が自分のことだけを考えることは、市場原理により、社会全体の生産性を上げることにつながる。しかし、このシステムは、人が全体のことを考えず、自分の目の前の仕事だけをして「騙されること」をその成立条件としてしまっている。「自分のやりたいこと」の決定を、無意識のうちに市場原理に預けていることになる。
ロック的な社会を乗り越えようとするルソー的な試みにも、「本当のわたし」という前提が潜んでいる。一般意志として人々が共有するのが「本当の私」である。
ファシズムにおける「本当のわたし」が民族。
マルクス主義においても、失われたものの回復という疎外論こそ、「本当のわたし」につながる。
カントにおいても、みなが共通の理性をもち、それこそが「本当のわたし」なのだ、となる。
すべてが「私」に押しつけられる現代社会
「私」という枠組みを相対化することが可能だ。なぜならば、「この世界」は、「思念」によって強く条件づけられているからだ。
共有しているマインドセット。このシステムを分析しようとしたのが構造主義の流れだ。
身体レベルでのリアリティを離れ、共有されている資本主義社会という枠組みを現実だと思って生きている。注目なのが、この幻想が、結果的に人々を騙すものだったとしても、それはそれで仕方がないと考えられていること。各人が自分のことだけを考え、その結果騙されることで経済が発展するというのが資本主義の構造。
宣伝や広告という外部により操作されることで、もともと外部にあったはずなのに、「私」の欲望として喚起されてしまう。すべては私に還元され、自己責任になる。
新しい社会契約へ
いまの社会の外で再出発するには、どんなルールがあればいいのか。
社会契約に参加する人は、「ゼロ地点」にたち、みなで共有する思考の枠組みをそこから導き出す
社会をつくるうえでのスタート地点での条件だけを定めている。一つの世界を絶対化しないための指針だ。そのためにも、次のような自由と平等が浸透している必要がある。
・自分でゲームを選択できる自由
・すべてのものを権利的に平等に扱うという多様性の尊重
そのうえで、いつでもゼロ地点にもどり、納得のいくような思考の枠組みを作り直せる仕組みを作るべき。
個人的感想
世界の外に出るために、言葉、理屈を重視している点にやや違和感がある。資本主義社会を支えているのは、本能に基づく欲望という側面もある。これは、生物的な本能に基づくのだから、言葉や理屈で抑制することが難しい。これは、錯視から視覚が逃れられない不可能さに近い。
著者が目指すようなゼロ地点は、各人が自力で到達できるようなものなのだろうか?
著者の心や言語的な哲学的分析を見ると、それらを乗り越える試みは、むしろ仏教などの修行体系が近いのではないか。それならば、解脱の状態を肌で感じている人たちは、新たな社会集団の規範を求めない可能性もある。
さらに、人の本能という側面で考えてみる。人という生物は、一つの幻想にすがってしまう生き物なのではないか。つまり、認知的に、世界を相対化することがほとんど不可能に近い。著者のゼロ地点という理想は、人という生物を遺伝子レベルで変化させないと達成できないような目標なのではないか。
大きな反対意見としてはこんなものが想定できるだろうか。
ただし、個人的には著者の意見と、上のような反対意見の中間あたりを支持したい。
著者のような設計は、今後よりヴァーチャルになっていく社会においては、うまく適用できる気もする。さまざまなヴァーチャルな小社会が乱立するのでは。たとえば、オンラインサロンなどもやや近いか。しかし、まだまだお金という規範を相対化できてはいない気もする。
関連記事