記事の内容
森博嗣のWWシリーズ最新作『リアルの私はどこにいる?』 が発売されました。
早速読んだので、ネタバレありで、感想、考察をしていきます!!
本を読んだけどいまいち全体がつかめない、という方はぜひ、この記事を読んでみてください。
そして、シリーズ全体の考察が気になる方も、何かのヒントになるかもしれません。
それでは、目次をどうぞ。
あらすじ 私の身体を探してほしい
クラーラという女性がグアトに会いたいと接触してきた。彼女の意識は現在ヴァーチャルにあり、肉体が行方不明になっているのだという。
また、彼女は、自分の身体がウォーカロンにすげ替えられた気がする、と述べる。実際に、グアトが作成した判別装置では、彼女はウォーカロンだと判定されていた。
リアルとヴァーチャルで親交があったケン・ヨウという人物が怪しい。ケンは、自身をウォーカロンだと言っていた。
現実世界にいたクラーラのボディは、自分自身で立ち去ったことが記録されている。そんな彼女のボディは、メッセージを残していた。そのメッセージをたどり、グアトとロジはボディのありかを見つけ出す。死体だった。自殺と考えられる。
一方で、センタメリカという独立国家が誕生しようとしていた。現実世界の国土ではなく、ヴァーチャルな国家だ。肉体を捨て、ヴァーチャル国家に住む決断をした人たちによる独立国家だ。
この政変とクラーラの事件にはつながりがあるのでは、とグアトは気づく。
クラーラの正体
クラーラの正体を探るために、グアトは次の視点で思考する。
誰がどこに何のために彼女を創ったのか?
答えはこうだった。
AIが、ヴァーチャル空間に、自身が人間になるためにクラーラを創った。
クラーラの正体は、ヴァーチャル空間に造られた人格だった。
とあるミニチュア博物館にあるAIがすべての元凶だ。このミニチュア博物館では、現実の人間をモデルに、ヴァーチャル空間に人格を作る技術が進んでいた。そうした人間創成を繰り返すうちに、作り手であるAIは、人間になってみたくなったのだ。そのため、クラーラという人格を生み出した。
グアトは、人形遊びをするうちに人形になってみたくなったのだろう、と評価している。
(この発想こそ、今作のキーアイデアだと思う。今作を読んでいて、私がとても気に入った発想である。)
クラーラは、創造神だったのだ。 彼女がすべてを作った。大勢の人間を作ったとき、自分も作ろうと発想したのか。 なんという素晴らしいインスピレーション。 否、そうではない。それが自然。人間らしい真理ではないか。 自分で試したい。 子供はみんな、初めて見たものに手を伸ばす。 自分もやりたい。 僕にもさせて、とせがむ。 自分が作った人間になってみよう、と発想したのだ。 そして、自分を欺き通すために、自分を人間だと思い込ませるために、あらゆる手段を講じた。リアルのウォーカロンを手配し、ヴァーチャルの裏返しの仮想を見せたのか。
人形を動かしているとき、子供は、人形が自分で動いている、と観察するんだ。人形の自由意志で判断し、動いているとね。これが、つまり仮想の自律だね」 「では、あのコンピュータは、人形のクラーラさんを動かしているうちに、クラーラさん本人になってしまったのですか?」 「そう、そのとおり。子供っぽいコンピュータだったんだ
そして、もう一つのポイントがある。
人間になるためには、自分自身が作られた存在であることを認識してはいけない。
創造神はクラーラに成ったのだが、その自覚はないように創った。
クラーラは自分のことを人間だと思い、グアトたちに接触した。
ヴァーチャル独立国家のなりたち
このクラーラという例が、ヴァーチャル独立国家の成り立ちに影響を与えていた。
ヴァーチャル空間にのみ存在する人格。
こうした存在が増えるとどうなるのか、グアトは次のように考察している。
小さなおもちゃ工場の開発品だった。それが悪用された、というわけでもなさそうだ。なにかの偶然なのか、あるいは手違いなのか、プログラムが一人歩きしてしまって、どんどんヴァーチャルでフィギュアが増殖した。具合が悪いことに、全員が自律系で、自分を人間だと思っている。クラーラさんみたいにね。それで、誰かが、国として独立を目指そうと言い出した。その運動が世界中のヴァーチャルで広がって、あんな結果になったんじゃないのかな。まあ、履歴を丹念に調べていけば、経緯が証明できると思うけれど
また、人口減少の時代にあって、頭数をヴァーチャルで増やし、民意を捏造して、投票の威を借るような悪意が生まれることに備える必要がある。おそらく、その対処も、今頃人工知能が演算中だろう。
ケン・ヨウとは?
今作内では、ケンの正体は分からない。しかし、おそらく森博嗣のシリーズに過去に登場した誰か、だろう。
今作では、百年シリーズとのつながりが明言されていた。百年シリーズに登場した誰かだろうか?
真賀田四季の「共通思考」
今作では、マガタシキという名前が頻繁に出てくる。グアトは、彼女の存在にとらわれていると言っていい。
グアトは、マガタシキの「共通思考」というフレームについて、繰り返し思考している。
共通思考とはなんだろう?
ぼんやりとだが、考えてみたい。
人と人の境界がぼやける。そこでは、人の思考はどうなるだろう?どの程度、共通の思考をもてるようになるだろう?
マガタシキは、コンピュータに、AIに、ウォーカロンに、共通思考の素になるような回路を組み込んだのではないか、とグアトは思考する。その結果、現代の社会は共通思考のほうに知らないうちに誘導されているだろう、と。
あらゆる存在の創造者に、マガタシキは成ったということだろうか。
私たち人を作ったのは、「進化」だ。
進化の過程によって、今のような私たちの性質が獲得された。進化という作り手にとって代わり、マガタシキは、あらゆる知能、思考をデザインしたのだろう。その先に、個人の境界が溶け合う世界がある。そこにこそ、共通思考が生まれるのか。
それでは、共通思考が目的ではなく手段だとしたらどうか?
であるならば、共通思考のさらにその先に、何かまた別の狙いがある可能性がある。
共通思考とはなにか?
この答えとして読めるのが、森博嗣の『赤目姫の潮解』だ。個が溶け合う未来が描かれる。
是非読んでみてほしい。
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