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<普遍性>をつくる哲学【要約・感想】主客一致の証明は無理だから「つくる」条件を語ろう

記事の内容

 

面白い。

 

哲学することを存分に楽しめる一冊。

 

伝統、最近の哲学議論を整理しつつ、著者の主張が明快。

 

物の実在は人間の認知に依存する。こうした構築主義、相対主義が強く見える現在。どうやって<普遍性>を守るのか?

 

人とは独立に存在するような普遍性は実在する、では、構築主義・相対主義のロジックに負けてしまう。だから、「普遍性をつくる条件を語ろう」というのがこの本の態度だ。

 

手法として、現象学に注目する。

 

 

 

 

 

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<普遍性>をつくる哲学 「幸福」と「自由」をいかに守るか

 

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目次

マルクス・ガブリエルの次へ!

今世紀に入って、カンタン・メイヤスー、マルクス・ガブリエル、グレアム・ハーマンらの「新しい実在論」が一世を風靡した。これについての鮮やかな解説書で好評を得た新鋭哲学者が、オリジナルの哲学マニフェストを書き下ろす! 閉塞感ただよう時代、とくに若者は「自己実現の自由」に飽いて、個々人の「小さな幸福」に閉じこもる。しかし社会的「自由」を放棄すればカネの力やハラスメントがのさばり、「幸福」も脅かされる。幸福、そして自由を確保するためにいま必要なのは、哲学がもつ「合意を形成する力」だ――。現代実在論からポストモダン思想へ遡り、近代哲学の可能性を捉え直して、真の「多様性」を守るための哲学の原理を示す。

 

第一章 新しい実在論の登場――普遍性は実在する
第二章 構築主義の帰結――普遍性を批判する
第三章 現象学の原理――普遍認識の条件
第四章 現象学的言語ゲーム――普遍性を創出する
終章 もう一度、自由を選ぶ

 

 

 

 

 

本書の要約

 

 

普遍性は存在するという新しい実在論たち。普遍性を解体する構築主義。

  • 一章 新しい実在論の登場 普遍性は実在する
  • 二章 構築主義の帰結 普遍性を批判する

 

 

本書の中に要約が存在する。それをそのまま引用したい。

 

構築主義は、「差異」を強調することで独断論を解体して、認識と存在の多様性を擁護するために、近代哲学の諸概念(普遍性、本質、真理、実在など)を批判する。それは、ジェンダー論やカルチュラルスタディーズと連動しながら、権力によって周縁化され、沈黙させられてきた人びとの声なき声を聴こうとする。しかし、その方法が相対主義であるために、現実と虚構を区別するための根拠を基礎づけられない。善悪の基準は論理的に相対化され、(暴)力が唯一の決定原理となる。自然科学の客観性の謎も残されるだろう。構築主義の構築、相対主義の相対化を避けられない。さらに、構築の無限の反復は何者とも規定しがたい他性という理念にまで行きつき、最終的には「絶対他者の否定神学」に帰着する。そうして、構築主義はその本来の目的を達成することができない。

 

構築主義は、再建なしの解体である。

 

 

 

新しい実在論は、構築主義と形而上学をともに批判して、哲学の「普遍主義」を再建しようとする。それは、物自体や事実それ自体の認識を認める「存在論的実在論」であるが、と同時に、客観的に存在する無数の意味の場に基づく「存在論的多元主義」でもある。すなわち、多元性の文化的構築の代わりに、その客観的実在を主張するのである。しかし、現代実在論全体を見れば、「実在をめぐる論争」の様相を呈している。実在論は意味の場を共有する可能性の条件を考察する方法を持たず、したがって、現代実在論の内部からは普遍性に至るための具体的な方途が見えてこない。事物の実在はわけなく認めることができても、意味や価値の実在ではどうだろうか。複数の意味の場が互いに反発しあうこともあるだろう。この場合、「実在」は──どれだけそれが多元的であったとしても──信念対立を調停しない。それどころか、むしろ対立を深める誘因になる。

 

ガブリエルの「意味の場の存在論」。この「意味の場」は認識とは独立した客観的な存在だ。特定の意味の場に対象が現れる。意味の場も、ある意味の場に現れる。

 

すべての意味の場が現れる意味の場はない。だから、世界は存在しない、となる。そして、特権的な意味の場はない。ゆえに、自然主義などの哲学的イデオロギーも批判する。

 

しかし、こうした新しい実在論の試みは失敗している。それは、認識論を切り捨てたからだ。

 

認識論を見限って存在論に走った現代実在論は、いくつかの興味深いモデルを提起することには成功したがーそれらが思考から隔絶した実在に関するモデルであるがゆえにーどのモデルが妥当なのかについて吟味する術を持たず、最終的には、相対主義と大差ない状況に陥っている。

 

だから、同類の実在論によって複数の実在、道徳が対立した場合、調停する方法がない。

 

 

〈普遍性〉の哲学は、構築主義と新しい実在論の対立を根本的に調停しうるものでなければならない。ただし、これらの包括的乗り越えを目指す必要はなく、普遍性を創出するという目的に照らしてどのような考え方が必要なのかを吟味すればよい。構築主義と現代実在論が時代遅れの遺産とみなす現象学のなかに、私たちはその原理を発見するだろう。現象学から見れば、構築主義と新しい実在論が引き起こした「現代の普遍論争」は、古代ギリシア哲学から引き継がれてきた相対主義と独断主義の相克を現代哲学の舞台で再演したものにすぎない。多様ではあるが、相対的ではない世界──これをつくるための方法が現象学なのである。

 

新しい実在論と構築主義の対立を調停するために、近代認識論に帰る。

 

普遍性の哲学の根本原理は、現象学的還元と本質直観である。

 

 

 

 

 

現象学的還元 意識における確信として客観を考えてみよ

 

 

・主客一致の認識問題

主観は客観そのものを認識できるのか。主観と客観の一致を証明できるか。

 

この問題を解く(避ける)ために、現象学は、以下2つの原理を採用する。

 

・形而上学的中立性

意識の外側は対象にせず、意識に現れるものだけを対象とする。意識の外側を考察するのが形而上学、という定義。

 

・無前提性

客観や実在を前提せずに、認識の本質を考えなければならない。

※認識の絶対的な基礎付け、基礎単位の確立を目指す「形而上学」ではないことに注意。あくまでも、無前提性は「主客一致の認識問題」を解くために有効な唯一の手段である、という意図。

 

 

 

現象学的還元とは、自然的態度から現象学的態度への移行である。自然的態度とは、意識に関係なく世界に様々なものたちが存在しているという私たちの常識的感覚のこと。一方、現象学的態度とは、すべての存在を私の意識との相関によって生成されたものだと捉え直すこと。世界を意識に含める。

 

このとき、「私の意識」の正確な意味に注意。意識すら、自然的態度で捉えてはいけない。

 

 

超越論的主観性

フッサールのいう意識は、エポケーを遂行した後にもなお〈私〉が直接見ることのできる非実在的な「超越論的主観性」のことである(少し分かりにくいが、超越論的主観性で「心」は構成されると考えてほしい)。これは「純粋意識」や「超越論的自我」とも呼ばれる。超越論的主観性はさまざまな対象確信がそこで生成する現場のことだと考えればいい。

 

客観的世界を確信できる条件、構造を意識に問う。

 

現象学とは「確信成立の条件の解明の学」である。そして、客観を成立させるような間主観的な条件を「私の意識の中」で問う、という流れになる。※実在の存在そのものを否定しているわけではないことに注意。

 

現象学的還元の目的をまとめる。

 

主観は客観に的中しうるのか、と問うならば、それを論証することはできず、独断主義と相対主義の相克に引きずり込まれる。そこで、フッサールの提案は、主観ー客観という図式それ自体を取り払って、意識における確信として客観を考えてみよ、というものである

 

独断主義と相対主義の相克を終わらせて、〈普遍性〉の哲学を再建するためには、いったんすべてを意識に還元して〈私〉の対象確信の条件を取りだし、そこからもう一度、他者(間主観性)に向かって問う以外に道はない、と言っているのである。

 

方法的な態度変更である。

 

普遍性を作るためという動機がある場合に役立つ方法である。現象学は万能の方法ではない。

 

 

 

 

 

 

 

本質直観 有効性とその弱点補強

 

本質は意識の相関概念であることに注意する。

 

フッサールによると本質直観は3段階からなる。

 

1 任意の範例から出発し、自由変更によってさまざまな変項を産出する段階。

2  産出された諸変項が重なりあい、本質(不変項)が受動的に構成される段階。

3 受動的に構成された本質を能動的に把握する段階。

 

 

しかし、本質直感への大きな批判がある。それは、個人が属す文化や価値観に依存した相対的なものになってしまうだろう、というものだ。

 

この弱点は補強できる。そのためのアイデアが現象学的言語ゲーム、善の原始契約だ。

 

・「私にはそうみえる」は絶対的な前提だ。しかし、他者とのコミュニケーションなどで認識は更新しうる。この積み重ねによって、「私たちにはそう見える」の獲得を目指す。

 

・認識の観点の共有は可能である。つまり、この意味で普遍性を目指すことができる。

 

 

 

 

 

 

普遍性を作るための原理を示す

 

 

現象学的言語ゲーム 一般本質学ではなく、超越論的本質学へ

 

超越論的本質学は「相互承認」と「相互主観的確証」の学である。過去の地平に目を向けると、本質は言語ゲームを通して生成してきたことが分かる。ならば、未来の地平の側にも、同じ可能性が属するはずだ。超越論的本質学とは世代を越えて本質をつないでいく言葉の営みなのである。

 

超越論的本質学は、存在の次元から生成の次元への移行を意味する。これは、認識論的正当性を優先したために、相対性のリスクを引き受けることだ。

 

 

 

 

善の原始契約

 

普遍認識を目指す現象学の動機の普遍性を問う。

 

生成の根拠を与えるものを「善の原始契約」とする。

 

現象学的言語ゲームをやめてしまえば、力のゲームに支配されてしまう。だから、「善の原始契約」という最初のお約束が重要。

 

 

 

 

 

普遍性へ

 

本質直観は「複数の超越論的主観性による間主観的ー歴史的プロジェクト」であり、本質の普遍性とは「すべての超越論的主観性が洞察し確証できる、意識作用と意識対象の構造の間主観的同一性」のことなのである

 

 

・普遍性は人間を超えて存在する実在ではない。私の意識から出発して、間主観的な共通性に向かうしかない。

・普遍性とは現象学的言語ゲームにおける間主観的コミュニケーションの内側で生じる。それは閉じていない。常に検証と確証に開かれている。

・普遍性は無条件に存在しない。善の原始契約などの条件が出発点として欠かせない。

・普遍性の根拠は実存にある。だから、普遍性の側から実存を規定してはならない。実存を捻じ曲げず、絶対視せず、私と普遍性を架橋しようとするのが現象学だ。

 

 

 

 

 

感想

 

全体の論旨、整理が明快で、とても学びになった。伝統的な存在論、最近の存在論の流れを掴める。

 

著者独自の論旨の骨格も納得できる。

 

ただし、現象学的還元そのものに対する批判的検証はまだまだ気になる。現代の認知科学、脳科学と接続したような議論も見て見たい。(いや、しかし、これだと自然的態度か...)

 

とくに気になるのは、「超越論的主観性」という概念だ。この概念の位置付けは、全体の論理と矛盾しないのだろうか?ここだけが、形而上学(意識の外の話)に属すように見える。そもそも、現象学が定義する「形而上学」は、恣意的ではないのだろうか。私も、まだ、この概念に慣れていない。慣れてしまえば、全体の議論がスッキリするだろうか。

 

現象学をもっと学んでみたくなった。

 

数学と現象学の関連を説いた本もおすすめしたい。名著。

 

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