記事の内容
<仏教3.0>を哲学する、という本を紹介します。
仏教、瞑想、マインドフルネスの革新に触れる一冊です。
仏教を批判的に哲学する。
本書から一部を要約
永井均の<私>の哲学で、仏教を解釈し直す。
本書の基本 <仏教3.0>とは?
常識的な意味での「私」や「自己」が瞑想やマインドフルネスを頑張る、という構図が当たり前になっている。これはまずい、と著者らは言う。著者らが思う仏教のあり方とは異なる。
私や自己ではなく、存在そのものの私が瞑想している、という立場を仏教3.0と呼ぶ。言い換えるならば、「無心のマインドフルネス」である。
この境地を、山下良道は、「青空としてのわたし」と呼ぶ。この境地から見ると、普段の私や自己とは、「雲」のようなもの。
また、映画という例えを使うなら、普通の感覚での「私」とは映画の中の話である。映画の外である、映画館そのものの存在が 「青空としてのわたし」である。
表現としては、「青空としての私」という言い方が分かりやすい。この表現を以降使っていく。
永井均の<私>
「なぜ私が私として在るのか」という不思議。
※永井均の<私>の哲学は、その理解がとても難しい。よくある別の話に誤解しないように注意。
無い方がふつうなはずなのに、どうしてか在る。
確率的にとても珍しい、という話ではない。
なぜ意識は私を作っているのか、などの科学的な話でもない。
因果的説明がまったくできない。
私の内容や特徴とはまったく関係ない。
つまり、本質はなく、実存でしかない。
端的な事実。
世界を開くすべてであるのに、この世界の中にはない。
どうやって人間や生きものに自己意識が成立するかということに関してなら、心理学的な説明でも、神経生理学的な説明でも、何でも、さまざまな説明が成り立つでしょうけど、自己意識を持つたくさんの生き物のうち「なぜかこいつが私であって、ほかのやつは他人である」という事実に関しては、いかなる説明も成り立たない。
説明ができないとはどういうことかというと、因果連関の内にないということです。時間に関してもそうです。これが現実に今であるのはどうしてなのか、と言われても、何の理由もないんですね。これが現に今、ただ現に今なだけです。
この私もそうですね。その私は何であるかと言われても、何であるから私、どうであるから私なのか、と問われても、その「何」や「どう」の中身はないんです。中身が何もないというのは、かくかくしかじかの性質を持ったり、かくかくしかじかの本質を持っていると私になる、ということがない、ということです。
注意 本来言葉で説明できない
<私>は、本来、言語哲学的な観点から、言葉で説明できない。
<私>の唯一性は、構造として言葉で表現した途端に、他者にも当てはまり、唯一のものではなくなってしまう。
言葉の仕組みのせい。ふつうの言語の使い方の中では、壊れてしまう話。
言葉っていうのは、これを言わないために、言わせないために作られたと言えるくらいのものですよ。言葉の根本は、主語と述語で文ができると、それに否定と連言の操作が付け加わって、あとは時制、人称、様相が加えられて、そうやってできるわけだけど、最後の三つは、みんなこれを言わせないためのものですよね。
時制がつくと、この<現在>の特殊性が言えなくなって、この<私>の特殊性を言わせないために人称ができていて、この世界こそが現実世界だと言わせないために様相がある。結局、そういうふうにヤリトリをするためにうまくいくようなものとして言葉はできていて、言葉で普通にヤリトリをする時には、この話はできないようになっているんですね。
「自己ぎりの自己」内山興正老師
内山興正老師が語る自己のタイプ分け。
第4図は、通常の私、自己のこと。
第5図は、「青空としての私」が「雲」を眺めていること。
第6図が、「自己ぎりの自己」。
第5、6図は、言葉で表現できない。
永井均の<私>と 仏教<3.0>
他者のことも、この意味での<私>であると感じる境地こそ、仏教<3.0>である。
つまり、無心としてのマインドフルネス。山下良道の言葉で言うなら、「青空としてのわたし」。
ここでは、他者への眼差しは、自然と慈悲となる。つまり、永井の言う〈私〉からしか慈悲は出てこない。これは、「青空としてのわたし」から「雲」を眺める視点。第五図のわたしが、他の人もまた第五図の存在なのだと認識すること。
永井均の <私>の哲学は、徹底的に哲学。ゆえに、宗教性中で、理屈で議論できる。ヴィパッサナー瞑想にしても、禅の坐禅にしても、永井均の <私>の哲学の理屈によって世界観を転換してから実践するべきだろう。
永井均の<私>と「無我」
私は、無我の段階で成立している。
エゴは、条件や関係で特徴を規定するときに生まれる。
無理由、無本質、無原因
私とは何かというと、無我なんですよ。無我だから私だ、ということですね。この逆説がポイントですよ、本当に。
私は、他のものを把握するときには、さっきおっしゃった形あるものとして、つまり形でとらえるわけです。それで、自己をとらえる時にはどうやってとらえるかというと、つまり私って何だ?という時にどうやってとらえるかといいますと、自己というのは他者から見れば特定の人間ですから、身長とか体型とか顔かたちとかそういう特徴を持っていますけど、自分が自分をそういう特徴でとらえるということはないんですね。
特徴はないわけです。あってもそれは使わないわけです。自己の成立にとっては特徴は関係ないです。特徴も関係なければ、自分が持っているもの全てが関係ないんです。だから私は、最初から、誰でもないわけです。
じゃあ、どうやってとらえられているのかと言えば、これはある意味でとても不思議なことなんですね。だって、何の特徴もないから他のものから識別してとらえる手がかりが何もなくて、とらえられないはずなんだけど、そこからむしろ逆のことが言えて、特徴によってとらえていないからこそ、とらえ間違いの可能性がない、とも言えます。
識別的特徴が何もないのになぜ識別できるのか、そして絶対間違えないのか、と言えば、そもそもそれしか存在していないからです。
なぜかそれが端的に与えられていて、それしかなくて、しかもただあるだけなんですね。特徴というか性格というか、何か特徴づけ、性格づけるような形とか、そういうものがないんですね。
たまたま付随的に存在していても、そういうものは本質的な役割を果たさないんですよ。特徴はたまたまただあるだけなんですね。
感想
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