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魂と体、脳 計算機とドゥルーズで考える心身問題【要約・感想】心から脳を作る哲学的実験

記事の内容

この記事は、本の紹介です。

 

魂と体、脳 計算機とドゥルーズで考える心身問題

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いわゆる哲学の心身問題に関する本だ。

興味を持っている人には、とても楽しめる一冊だと思う。

 

本当に存在するものは何だろうか? 私の「今・ここでの体験」だろうか? それとも、他人からみた「物質としての脳」だろうか? もちろん、両方だろう。ところが、そう言った瞬間、「私の」体験と「他人からみた」脳を結ぶメカニズムが知りたくなる

 

本書の要約と私の感想を記したい。

 

それでは目次をどうぞ。

 

 

 

 

 

クオリアから身体をうむ

 

物質としての脳が、どのようにしてクオリア(体験)をもたらすのか。

 

ではなく、クオリアをスタートに置く。

 

クオリアはどのように脳(物質、身体)をらもたらすか。

 

ライプニッツのモナドというアイデアを使う。

 

そして、「二人称としての心身問題」を扱うのが本書の狙いだと言う。

 

私とあなたの世界。

「あなたには心があるのか?」「私の体験がわかるか?」

対面であることから、不確実性が生じる。

 

 

 

 

 

感想

面白い。

哲学的な概念で遊び、理論を組み立てる様子が楽しめる。

さらに、コンピュータシミュレーションである程度、理論の様相を実装できる。このおかげで再現性があり、科学のさまざまな理論にも繋げられそう。

 

しかし、やはり本書は哲学書である。

あくまでも概念で概念を組み立てている。

 

しかし、概念の正確な定義を求めどんどん遡れば、意味ははっきりしない。よって、この理屈がどこまで正しいのか、検証することが難しい。

 

心脳問題への解釈の一つを暗示してくれている、という控えめな感想になる。

しかし、読んでいて抜群に面白いので、ぜひ読んでみてほしい。

 

 

以下では、本書の一部を要約している。

あくまでも私の個人的なメモになる。これだけみても、ほとんどの人にとっては意味不明だろう。

 

今後もこのメモは増えていく予定だ。

 

 

 

 

 

1心身問題と中枢

 

心身問題から支配的モナドと中枢へ

 

クオリアをモナドと見る。

 

・ひとつのクオリアには、意識できないが巨大な世界の因果関係が反映されている。

・滑らかに持続するクオリアはある視点をもつ。

・あるクオリアから別のクオリアへと飛び飛びになっているのが実際。しかし、意識上はつながっている。これらの総体が人生の物語となる。

 

・ライプニッツのモナドという考え方

つまりモナドとは宇宙を解釈する視点であり、そこには、総ての出来事が、その視点からの解釈に従って含まれている。そして解釈の違うモナドが無数にあり、身体と心と呼ばれているのも、そうした二つのモナドである。モナドは皆同じ世界の出来事と秩序を表現している。だから、複数のモナドは閉じてはいるが調和している。身体と心の間にも調和があるし、私とあなたとの間にも調和がある。

 

・モナドは宇宙全体を表す

・時間が進む前に出来事の配置は決まっている

・モナドは閉鎖している(にもかかわらずモナド同士の伝達が可能であるかのように見えるのは、神の計画による予定調和のおかげ)

 

・モナドは他のモナドから影響を受けない。モナドには、そのモナドに起こる出来事があらかじめ含まれている。一本の映画のよう。このモナドに外部を持ち込むことを考える。

・モナドと身体や物質との関係は?「支配」の出現という出来事=「実体的紐帯」という出来事を考える。魂と身体の区別と結合を可能にする動的な出来事。この往復運動はどのように作れるのか。

 

・実体的紐帯 

ところで「実体的紐帯」とは、「身体に属する部分とそれを支配するモナド達」を捕獲し、それらを支配的モナドによる支配関係に、従属させること、および、それを可能にする「何か」であった。

 

 

 

 

「中枢」を作って展開する

「中枢の出現という出来事」を作る

・中枢=命令や設計する者

・中枢の仕様

・中枢の発生する仕組みを自己組織化で考える。中枢がないところに、中枢が現れる。これは、自我のない脳モデルから自我のある脳モデルが自己組織化すること、とも言える。

・相互に相手の能力を必要としている状況をデットロックと呼ぶ。デットロックにおける交換には遅延があり非同期的だ。だから、その穴をないものとするために、「信用」が必要になる。この「信用」を自己組織化するにはどうすればいいか。

・交換を否定されることは、自分が知らないような、自分を超えるような価値が相手にあることを示す。これは、相手の信用が上がることを意味する。この信用を「相手からの返礼無しに、一方的に能力の提供を行うが、それは一時的なものでいつかは返礼があるだろう」という期待である。

・キャッシュ 他のエージェントたちのある時点での要求と能力の情報。つまり他のエージェントたちの影である。

・エージェントが相互作用を行う世界で実装し、交換を繰り返した結果、中枢が現れた。

 

まず中枢エージェントは、「システム全体で今どのような機能や情報が求められているのか」の概要を内部に持つ。つまり、システムの「動的な地図」を内部に持っている。この地図の起源は、「交換の非同期性にともなう不確実性」、信用によるその擬似的解消、そして「信用を誰に担わせるのかという不確実性」と、噂話によるその擬似的解消にある。

 

・支配的モナドと中枢エージェントの違い。エージェントの場合は、他エージェントへの支配が直接的。エージェントは開かれすぎている。また、支配的モナドは唯一であるが、中枢エージェントは複数ある。

・観測基準の不確定性(観測者による観測者の観測)、中枢の崩壊、出来事と構造の識別不能性

 

 

 

 

 

閉鎖としての不確実性の侵入

 

ベルクソン

・クオリアは客観的に存在する

・クオリアは、相互に作用反作用の関係をもつ

・主観的なものは過去に存在する

・過去に属するネットワークは様々なアレンジ=視点をもつ

・過去は現在の作用反作用内にある「アレンジ=視点」の与え方次第で、複数存在する。

・異なる視点=過去は、「不確実性の中心」を通じて現在に介入できる

 

・エージェントからモナドへ。閉鎖をどうやって実装するか?動く閉鎖のイメージ=他者の痛みと終わり無き対話=クオリア問題のダイナミクス=原始的心身問題。対話を止めることはできるが、相手の一言で止める基準そのものが変わってしまう。価値尺度を共有しない対話である。

 

・上記対話の条件

対話の内容、すなわち「相互視点交換の不確実性」

対話の終了条件、「満足の基準の不確実性」

 

・対話の条件のみ変更したモデル

エージェント達は、だいたいにおいて平穏にすごし、全体として保存量がある世界、まるでそういった「物理」に支配された世界がそこにあるかのような仕草をみせる。しかし、時に激しく迷い、記号に対する解釈を激変させる。心身問題に悩まされ、ふとあっさり忘れ、生活の、「リアルだと信じる」やりくりに戻って行く。このことは、この世界のエージェントたちが、価値の尺度としての貨幣財成立後も、相変わらずその伝達不可能性についての終わりなき対話を繰り返すのを完全には止めていないということを意味する。

 

 

・グローバルな価値の不在。二人称的価値は対話の打ち切りによって表現される。解釈の変動に対する変動である。これを「力への意志」とみなし、さらにそのネットワーク性に注目する。このネットワーク性が解釈の固定化を防ぐ。

 

 

 

 

 

 

6 中心から紐帯へ

 

・不確実性と閉鎖は唯一性をもたらす。

・力とは現前(明晰さの程度の違い)であって、作用(直接的な行使)ではない。これは、明晰さ=縮図を使って、従属を調達すること。

・魂と身体の区別の不確実性。

 

なぜなら、ライプニッツあるいはモナドロジーにとって、「支配的モナド」が、普通の意味での「魂」や「精神」と同一視されるなら、その「出現」は魂の出現、あるいは魂と「そうでないもの」の「区別の出現」でもあるからだ。換言すれば、もし「魂」または支配的モナドが、そうでないもの=群れとしてのモナドから「出現」する、もしくは逆に堆積に落ち込み「物質」になるなら、「魂」だけで全てを説明することはできなくなる。

 

・モナドロジーで、身体が必要になる理由

 

身体は、何が共可能で、何が不共可能かを決めるプロセスによって決定される。そのプロセスは内部に不確実性をはらんだ「実体的紐帯」によって、身体と魂の区別、支配されるモナドと支配的モナドの区別を決める。だから、新たに「身体」が必要になるというのは、「魂」しかないモナドロジーの観点からみた思考であって、事の本質は、「魂と身体の区別」の不確実性にある。

 

・モナド間の整合性を保つためのプロトコルが物質。

 

・実在化と身体のモデル。身体とは、他者との同意による両立範囲。観測者の観測が身体のことになる。無数の他者視線からなるパッチワークである。

・相互観測=身体と心の区別。

・観測者の観測の実装。そのために、二つのグループを結合することを考える。

 

不確実性=閉鎖を入れたエージェント集団では、観測者=中枢を持つ集団が別の観測者=中枢を持つ集団を観測し、互いを安定動作させることができる。つまり、二つの観測者は、共可能的で互いを観測者だとみなしている。これは、一種の「常識」的挙動を二つのグループが学んだとも言いうる。なぜなら、この二つの集団は、相手の中で「支配的なもの=魂」をお互いに識別し選別し合うことで、「そうでないもの=物質」をその外側に閉め出すことに、持続的な形で成功しているからだ。精神的なものと物質的なものをハッキリ区別するような、「常識」の円滑的活用がここでは機能する。別の言い方をすれば、本来「中枢の二重性」によりこの区別は常に識別不能性に脅かされているのだが、両者が互いを支え合うことで支配・被支配のレベル差を維持している。

 

・現働化と意識のモデル。

 

中枢内のキャッシュ=明晰なクオリア内部に、処理が「戻る=現働化」か、それともその外に「出る=実在化」かという区分だ。この区分の場合、結果として「現働化」とは、キャッシュ内部=モナド内部の明るい領域=図の範囲設定となる。

 

 

・中枢と中枢のあいだ