記事の内容
『野の医者は笑う 心の治療とは何か?』
という本をこの記事では紹介する。
心の治療のために、現代科学は臨床心理学という分野を持つ。プロが活動している。そして、大学でも学べる。
しかし、この本は臨床心理学に疑問を投げかける。それは、「心の治療とは何か」という本質を徹底的に考えたとき、必然的な問いだった。
本書において、臨床心理学を研究するために著者がとった方法は、怪しいヒーラーたちとの交流だった。
この本の著者は、ド直球だ。
誤魔化さない。
本質へ。
そこで見えてきた心の治療の本質。
心に興味があるならば、ぜったいに読んでおきたい一冊だ。とてもおすすめ。まずはこの記事の目次を読んでみてほしい。
- 記事の内容
- 野の医者とは?
- 野の医者たちの性質
- プリコラージュ 自分で治療をつくる
- 治療とは、説得であり、信頼であり、物語である
- 自分自身が癒されている野の医者たち
- 癒す人と病む人が別れたのは最近のはなし
- 資本主義によって傷つく私たち
- そもそも、「癒やし」の定義とは?
- 人の生き方のおもしろさ
- 関連記事
野の医者とは?
正規の医療、そして、資格のあるカウンセリングなどではなく、スピリチュアルやヒーリング、レイキ、ユタなど、自己流で心の治療活動をする人たちがいる。とくに、沖縄に多い。
そんな存在を著者は、野の医者と呼ぶ。
(この名づけから、なんだかいい)
野の医者たちの性質
まずは、そんな野の医者たちの素性をみよう。
彼らの本質の一端に触れる。
野の医者とは病み、そして癒やされた人たちである。 私はその後、百人以上の野の医者から話を聞いたが、ほとんどの人が深刻に病んだ時期があり、それを潜り抜けた後に治療者としての活動を始めていた。 野の医者たちは自分が病み、癒やされた経験から得たものを、今病んでいる人に提供しているのである。 自分を癒やしたもので、人を癒やす。そして人を癒やすことで、自分自身が癒やされる。 こういう現象を、ユングという偉大な心理学者は、「傷ついた治療者」と呼んでいる。
治療者になるためには、一度病者にならないといけない。あるいは、病者が治療者になる。人間は病み傷つくことで、人を癒やす力を手に入れる、ここに伝統的な癒やしの文化がある。
野の医者たちは「傷ついた治療者」である。後で触れるが、この洞察が「癒しとは何か」という本質に繋がっていく。
プリコラージュ 自分で治療をつくる
野の医者たちは色んなタイプがいる。多様さはどこから来るのか。
彼らが語る世界観は個性的だ。さまざまな宗教やスプリチュアルの概念を自由自在に組み合わせる。
なぜ沖縄には野の医者が多いのか。それは沖縄シャーマニズムが自由な伝統をもっているからだ。沖縄の神様は自由自在のブリコラージュを許容する。堅苦しいことを言わない。だから、病んだ人は目の前の怪しい治療に飛びつき、治療者になっていくことができる。沖縄にはそういう文化がある。
著者は気づいてしまう。臨床心理学だって、プリコラージュなのではないか。
もしかしたら、心の治療って、実はブリコラージュそのものなのかもしれない。私は臨床心理学のことを考えていた。
だけど、心の治療とは本来的にそういうものなのではないか。 現在流行りの認知行動療法を見てみるとわかる。欧米では、次から次へと新しい技法や治療プログラムが開発されている。それらのほとんどは今までの技法を組み合わせ、ブリコラージュしたものだ。
心の治療とはそもそも、場当たり的でプリコラージュ的である。現代臨床心理学のプロである著者は断言する。
治療とは、説得であり、信頼であり、物語である
野の医者たちは治療中によく喋る。自分の世界、物語に引き込むためなのだろう。このおしゃべりの過程こそ治療に重要なのではないか、と著者は気づいていく。
つまり、「無意識を意識化すること、無意識の自己実現を助けること、不適切な学習を解除し、適切な再学習を行なうこと」という治療者の説明モデルにクライエントを巻き込むことで、治癒が生まれる、そういう結論だ。 だからフランクは、すべての治療の本質は科学的真実ではなくレトリックにある、とまで書く。
一体、見立てとか診断って何なんだ。この問いについて、野の医者と会い続ける中で、私なりの答えが見えてきた。 治療者の見立ては、クライエントの生き方に方向性を与える。
クライアントの生き方に影響を与えるために、治療者が持つ生々しい世界観という物語が有効なのだろう。
ということは、治療者と患者との間には、相性があるのではないか、と感想。
自分自身が癒されている野の医者たち
野の医者たちの生態を観察することで気づいた癒しの本質。それは、生き方を実践することこそが癒しだ、ということだ。
野の医者たちは誰かを癒やす機会を欲している。そのことで自分自身が癒やされるからだ。
野の医者はいまだ病んでいて、癒やしを求めている。 それはカミダーリをした人がユタになっても、まだ病んでいるのと同じだ。だからユタは神の使命に従わなくてはならなくて、ユタを辞めることは許されない。
野の医者の真実はこうだ。野の医者のクライエントは野の医者なのだ。実際に野の医者にお金を支払うクライエントのほとんどが野の医者なのであり、野の医者を取材すれば、その患者を取材したことになる。 つまり、病者は治療者という生き方をすることで癒やしを得る。だけど、それで病者じゃなくなるわけではない。病者であるがゆえに人を癒やせるわけだし、人を癒やすことが自分を癒やすことなのだ。それは病むことと癒やすことが「生き方」になるということだ。
癒す人と病む人が別れたのは最近のはなし
科学という考え方が心の治療にも入ってくるにつれて、癒す人と病む人が徐々に別れていったのだろう。
科学的な医学によって初めて、癒やす人と病む人、治療者と病者が別々のものになったのだろう。科学は混沌としたものを分けて、分離していくものだ。そうやって、科学は近代社会の治療者を専門職として、病者から分けていったのだ。
野の医者の核心は、病んだ人を「癒やす病む人」にするプロセスにある。 野の医者は治癒を与えるのではない。ひとつの生き方を与えるのだ。
病む人、健康な人の線引きって、そんなにはっきりわけれるものなの?と疑問がでてくる。
資本主義によって傷つく私たち
癒しの形がとても軽薄に見えるのだが、それでいいのだろうか?と著者は気がつく。
いま、私たちは経済原理により傷いている。だから、癒しも、今に合う形でもたらされる。物語性、生き方、価値観は時代から影響をうけているということだ。
彼女は徹底的にポストモダンの野の医者なのだ。天使がいるか、前世があるか、そんなことはどうでもいい。重要なのはマーケティングなのだ。経済が成り立つかどうかが、天使がいるかいないかの百倍大事だ。
マインドブロックバスターにとって一番重要な癒やしは、「ありのままの自分」になることでも、「本当の自分」を知ることでもない。 癒やしは、ヒーリングで収入を得るというところにある。
臨床心理学も例外ではない。現在認知行動療法がブームだが、それはエビデンスの思想が深く浸透した治療法だ。保険会社が求める経済論理に最適化した治療法なのだ。 資本主義による傷つきは、資本主義的な治療によって癒やされる。 これが面白い。傷つけるものは癒やすものであると、ギリシアの神様が言ったではないか。
私たちは今、軽薄でないと息苦しい時代に生きている。だから、軽薄なものが癒やしになる。
そもそも、「癒やし」の定義とは?
著者が野の医者に投げかける問いはとても重要だ。
劇的な変化と言うけど、それはあくまで躁状態になっただけであって、本質的な部分は何も変わっていないんじゃないか。
つまり、野の医者たちによる癒しって本当の癒しなの?、と疑問を呈す。
そこで、著者は気づく。
癒しの定義に。
癒しは一つではないのだ。
人の生き方や価値観は多様である。それゆえ、癒しもそうなのだ。
治癒とはある生き方のことなのだ。心の治療は生き方を与える。そしてその生き方はひとつではない。
心の治療はニュートラルではない。無色透明な健康をもたらすものではあり得ない。
心の治療とは、クライエントをそれぞれの治療法の価値観へと巻き込んでいく営みである。
だから、臨床心理学と野の医者は親戚だ(もちろん精神医学も、シャーマンも、宗教も)。私たちは同じメカニズムを使って、治療という営みに参画しているのだ。
野の医者が思考によって現実が変わることを目指すのに対して、臨床心理学は現実を現実として受け止め、生きていくことを目指す。軽い躁状態が健康なのか、落ち込めることが健康なのか。このあるべき生き方の点で私たちは意見を違え、違う道を歩んでいるのである。
本当の科学は価値判断をしない無色透明なものだ。だけど、ひとたび科学が生き方を提唱するならば、それはもう無色透明ではない。それを人はイデオロギーと言う。 臨床心理学も、ある特定の色をもったものなのだ。それは、ある生き方を提唱する文化なのだ。 その生き方がいいものなのかどうかを判断できる基準は何かあるのだろうか。
臨床心理学は中立ではないという点で、科学ではない。
「笑いとは、その本質からしてきわめて非公式なものである。笑いは、公式の生活のあらゆる生真面目さの彼岸に、無遠慮な祝祭的集団をつくりだす」 野の医者は、非公式なやり方で、資本主義の公式な世界を逞しく生きようとする。そのために笑う。
心の治療と科学。それらの関係性をうまく相対化する洞察だと思う。
心理学の限界でもあり、学問の謙虚さを感じるところでもある。学問ならば、徹底的に自分自身を批判できる。それが素晴らしいところだ。一方で、野の医者たちは自分の世界観の絶対性を基本的に疑わない。科学哲学、などが好きな人にもぴったりな話題だろう。
人の生き方のおもしろさ
サヨコさんはスピリチュアルから卒業して、臨床心理学が良かったって言うけれど、それでもやっぱりスピリチュアルヒーラーになりたいのだ。ミラクルストーリーは終わらない。 最高じゃないか。これだから、心の治療の世界は面白い。治療者が思い描く理論通りに、クライエントの人生が進むわけがない。そんな綺麗な物語は教科書の中にしか存在しない。人は好きなように生き方をブリコラージュして、逞しく生きていくのだ。
他人は思い通りにならない。
自分も思い通りにならない。
いや、すべては思いどおりなのかも。
こんな人の心の面白さに触れて、本書は終わる。
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