記事の内容
この記事では、『現象学という思考』という本を紹介します。現象学を学ぶ上で、とても学びになる一冊です。
本書の要約と私のコメントをまとめます。
それでは、目次をどうぞ。
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あらゆるテーマの学問に興味があります。
本書から一部を要約
事象そのものへ。
「確かである」とはどういうことか
自明性を気にする思考モードが現象学だ。
- 普段の生活では、「自明なもの=あらゆる活動を支えるてくれるような前提的な体験」は主題化されない。
- 自明性は、意識されないからこそ力を発揮している。
- このような自明性の次元を探るための特別な方法論が、現象学だ。
- その方法論を一言でまとめるならば、「流れる現象のみに即す」だ。
メモ
「自明なもの」という一般論はあり得ないのではないか。実際に、特定の「自明なもの」は、別の文脈では対象になり、科学的な研究が可能である。
また、現象学的還元により、「自明なもの」を扱うとき、それは意識化、対象化されているのだから、「自明なもの」の定義が崩れてしまうのではないか。
現象学という方法論と科学との決定的な違いは何か?
「物」とは何か
- 物から流れへ。
- まず、個別な物ではなく、「流れ」がある。
- 流れがあるから物の変化が見える。その変化という「構造」こそ、物を直観させる。
- つまり、物は、流れから現れる規則的な「構造」である。
- それは、「現れていない」ということも、うちに含む。
- こうした多様な変化、変換の可能性の体験こそ、物の確からしさの根拠である。
- 例
- 物の自明性の一種
- 「当てが外れる」という経験は、「現れていないもの」は常に不確定性をもつことを示す。
- 物の自明性の一種
- 超越論的主観性
- 現象の相関、としか言えないような何かを、超越論的主観性、と呼ぶ。
- 超越論的主観性とは、客観と主観が後に現れてくるような媒介的な場である。ゆえに、超越論的媒体性、とも言っていい。
- 超越論的主観性という視点で考えることが現象学的還元である。
本質 現象の横断的結びつき
- 現象学における「本質」の考え方
- 本質は、個別の物そのものではないし、イデアのように物を離れて実在するわけではない。
- どこにでもありどこにもない。
- 共通性=結びつき
- 個々の変化や相違と相関的であり同時的である。
- 例
- 「赤」という個別の現れと同時に、「赤」という結びつきも現れる。
- この結びつき、つまり媒介こそ、本質である。
どこまでも流れゆく生のなかで、そのほかならぬわれわれの生が、いかに深く「同一性」に魅了されているかを、再び驚きをもって眺めるということは、現象学的な「眼」を開く上で重要なことである。われわれの経験が、至るところで「同じもの」に惹きつけられつづけているということは、あまりにも「自明なこと」なので、そのこと自体をあらためて意識化する機会は、自然的な生のなかにはほとんどない。
媒介としての自我
自我は、過去・現在・未来の媒介である。
それぞれの瞬間をまったく距離なしに結びつけてしまう契機だ。
実体的なものではない。流れる現象があって初めて、自我という構造がうまれる。
それ自体では記述できないのは、それが現象から現象へ、出来事から出来事への推移において、はじめて姿を現わすからである。逆に言うと、このような具体的な出来事の推移がなければ、「自我」と呼ばれるものも雲散霧消してしまう。出来事の変転があって、はじめてそのなかで、いつまでもゼロにとどまりつづけるものとして、「自我」が形を取り始めるのである。
差異を無効化する「ゼロ変換」こそ、自我という構造の特徴である。
これは、個でもあり、普遍でもある。
「変様」という自明性が自我の確からしさを与える。
変様 自我は生きた現在追いつけない
- 変様態と原様態との往復運動(=変様)こそ、現実である。
- 変様態
- 対象化され、同一化・並列化された状態。その意味では把握でき、それを現実そのものと思ってしまう。
- 例
- 「今」は対象化した時には、常に過去となる。
- 原様態
- それ自体をつかむことはできない。
- 往復運動の中に、痕跡として指示されるだけ。
- 遡行的に示されるのみ。
- 変様態
純粋が現在を飛び越えることこそ、自我の本性である。
「いま現にこのように現れているが、こうでなくてもありえた」
空想可能性の世界
否定的経験、不意打ち的経験において、自我の自由性が呼び出されやすい。
変様によって隠されたものをつかもうとするモードこそが現象学という方法である。
思考の手前への呼びかけだ。
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