記事の内容
とても面白い本と出会いました。
『ブッダの世界観 五蘊・十二縁起の脳科学的解釈』
仏教と複雑系を照らし合わせる、という本です。具体的にいうと、ブッダの思想と唯識を、複雑系科学に基づく意識理論を用いて再解釈します。
仏教好きにも、意識科学好きにも、おすすめしたい一冊です。
- 記事の内容
- 本書の概要と前提
- 本書全体の感想
- フリーマン理論
- フリーマン理論の哲学的意味合い
- 情動システム
- ブッダの心の現象学
- 「無明・行」の解釈
- 刹那滅とカオス
- 志向性、自由意志、慧
- 脳・心と宇宙 循環生成、自己組織化
- 実存、悟り、倫理的な生き方
- 十二縁起の脳科学的解釈
- コメント 「気づき」について
- 関連記事 仏教と脳科学
本書の概要と前提
前提
本書はフリーマン理論の科学的、哲学的世界観に依拠する。
フリーマン理論では、意識下の欲求、気づき、思考のカオス的遍歴という3つにより脳と心がリンクする。つまり、この3箇所において、脳と心は同一のプロセスであるとみなす。
以上により、脳と心という二元論を克服できる、とする。
上記前提のもと、フリーマン理論と仏教のプロセスが対称性をもち、重ね合わせることができると主張する。
- 大域的アトラクターが気づきであるとするフリーマン理論
- 気づきが、五蘊と十二縁起を介してすべての思念を生み出すとする仏教
本書全体の感想
「心の哲学」の観点からはツッコミが入りそうだ。あまりにも簡単に心脳問題を片付けている印象である。カテゴリーミステイクに配慮した説明はある。だが、その乗り越え方に関する説明の納得度は低い。
本書では、よく哲学的な概念が登場する。それら概念の厳密な定義や説明はほとんどない。よって、やや哲学的領域に関する主張が曖昧な印象だ。もちろん、仏教概念の整理において言葉の厳密な定義は難しい。にもかかわらず、仏教概念の整理は丁寧だと感じる。しかし、登場する哲学概念、仏教概念を包括する実在論系、心脳問題系、科学哲学系の哲学的概念の説明不足を感じた。ゆえに、全体の説得力を低下させてしまっている、と思う。
たとえば、繰り返し登場する「プロセスの存在論」概念を批判的に検証してほしかった。
しかし、本書全体としては、仏教好き、脳科学好きならば、興味深く読めた。著者に感謝である。
フリーマン理論
意識=心とは、大域的アトラクターである
意識を複雑系とみる。
ニューロンの集団的活動はカオス状態にある。行動と知覚による外界との相互作用によって、自己組織化、つまりあるパターンをうまれる。このような収縮先パターンのことを、複雑系科学ではアトラクターという。
脳の場合、アトラクターとは、搬送波である特定のガンマ波である。
無刺激時、脳波は不規則だが、行動-知覚サイクルにより、特定のガンマ波=アトラクターが生じる。刺激の情報やその脳にとっての意味、そして、クオリアはそのアトラクターのパターンの中にすでに含まれる。
他の脳領域と相互作用し始めると、大域的なアトラクターとなる。この大域的なアトラクターこそ意識をうむ。ゆえに、「気づき」の正体は、大域的アトラクターの出現である。
意識における認知、つまり、心とは、大域的アトラクターとそのカオス的な遍歴である。これは、物たちの次元とは異なるが、複雑系科学によって分かってきた実在しているプロセスである。
参考 津田一郎によるアトラクターの解説
https://youtu.be/DsT7Ha2BDfo?si=_UqcbRYZLeb2W44A
「行動-知覚サイクル」によって、脳内は物理世界に開かれている
アトラクターは様々な階層での行動と知覚の相互作用ループによって生まれる。
知覚と認知は、行動-知覚サイクルにおいて脳幹・視床下部から発出する情動(emotion)・志向性(intentionality)と大脳皮質に蓄えられた記憶と統合されることによって、個体にとっての意味・価値・クオリアを含むものとなる。このような知覚のあり方を、ヴァレラらは「身体化embodiment」、フリーマンは「同化 assimilation」という言葉で表現している。
実際、われわれの知覚は常に何らかの情動と過去の記憶によって彩られているのであって、純粋に物理的な知覚などというものは存在しない。いかなる生物の感覚システムも、それが有する生得的な(環境に適応した)運動能力とカップリングしており、志向性に駆動された行動が、行動-知覚サイクルを介して知覚と認知を生み出すのである。
フリーマン理論の哲学的意味合い
脳と心は、「気づき」という契機で対応している。ここに、脳と心のプロセスの対称性、つまり、重ね書き性がみえる。
仏教でも、「気づき」に注目している。ここに、仏教的世界観との繋がりをみる。
意識の実在とは、大域的アトラクターの変遷というプロセスの実在である。プロセスの存在論、という立場だ。
また、気づきは創発現象であるから、決定論的でもランダムでもない。
情動システム
探索、怒り、恐怖、パニックなどの4つのモジュールを基本とする複雑系、それが哺乳類に共通する情動システムだ。生存や生殖に直結する。脳領域としては、発生学的に古い領域である視床下部に密集している。
脳内に、身体情報をまとめて管理するような原初的な自己がある。それは発生学的に古いため、情動システムとの関わりも強い。意識において、「存在」の神経的、心的な焦点である。
ブッダの心の現象学
五蘊とは認知装置である。
ダルマ・法とは、過程・プロセスである。五蘊という心の要素的プロセスが自己組織的に統合された全体が心である。そして、それは複雑生命有機体だ。
- 色
- 物そのものなことではない。物の主観的なプロセスのこと。
- 受
- 快や苦などの心的プロセス。
- 想
- 思考プロセス。
- 行
- 形成のプロセス。
- 識
- 知る、認識するというプロセス。
「無明・行」の解釈
「無明」は、存在的・認識的混沌を指す、と解釈できる。
以下のように、構造や機能が対応している。
- 仏教
- 無明→行→識
- 脳科学
- 爬虫類脳→旧哺乳類脳→新哺乳類脳
フリーマン理論でいうならば、無明→行は、カオス→志向性を起点とする行動-知覚サイクルに対応する心的プロセスである。
刹那滅とカオス
「刹那滅」とは、識の滅であり、再び識が生じる連続的な生成プロセスである。存在と非存在の表裏一体、と言える。
フリーマン理論で解釈し、自由意志の問題とつなげる。
自由意志は、無明への移行においてうまれる。
気づきであるところの大域的アトラクターは、生成後直ちに崩壊して過渡的状態に陥るが、その崩壊が「刹那滅」であり、その過渡的状態が「無明」すなわちカオス・混沌である。
フリーマンは、過渡的状態において生じる「ヌルスパイク」という現象が、混滝を打ち破り、新たな大域的アトラクター(秩序)を創発させる契機となることを示した。この「ヌルスパイク」によって既存の大域的アトラクター(既成観念)の全てが一時的に「無化」されるということが、新たな「気づき」が非決定論的で、自由であることを可能ならしめているのだ。
「ヌルスパイクにおいて心のコアと宇宙のコアとが一体化する」というフリーマンの言葉は、心の「循環生成」が「自己組織化」という宇宙原理に基づくことを意味している。こうしてフリーマンの意識理論は、ウパニシャッドの「我一如」やブッダの十二縁起と同様に、脳と心のプロセスが対称性を有することを示しているのである。
志向性、自由意志、慧
大域的アトラクターの形成は何によって方向づけられるのか。それは、脳・身体のすべてがおりなすカオスから創発する秩序である根源的な志向性だ。仏教でいう「行・思」に対応する。アトラクターは相互作用し変化していくのだから、自由意志は否定されない。
「有」から生じるすべての(決定論的な)心の働き(生=有漏)が「死=刹那滅」において一旦「無化」されることによって、「清浄=無漏」へと向かう、真に自由な知恵であり意思であるところの「慧」が成長していく。
先に述べたように、その「慧」は生得的利他心を核としている。正見とは未だ言語化されていない慧の大域的アトラクターであり、正思とはその言語化を含むカオス的遍歴であり、正語とは正見が言葉として正しく表現されることである。それらのプロセスが「正しく」行われるためには、「行・思」の源である身心を「正しい」状態に維持することが必要である。その基本的条件が「正業(正しい行い)・正命(正しい生活)・正精進(正しい努力)」であり、それは「識」に引き続く「名色→六処→触→受→愛→取」のプロセスを「慧」によってコントロールすることである。
そうして正しい身心の状態(正念・正定)が到達されることによって、「生」において新たな「正見」が発し、それが「死・無明」を経て、「行」における「正思」として発現するのである。このサイクルが循環することによって、身心は「慧」と共に、さらに向上していく。
「無明」は、煩悩に閉じ込めもするが、 慧を介して悟りへと導く契機でもある。
脳・心と宇宙 循環生成、自己組織化
十二縁起は、宇宙と人間が識の変化というプロセスを介して一体化していることの洞察である。
複雑系理論の言葉で表現すれば、大域的アトラクターのカオス的遍歴において、「滅」に引き続いて生じる「無明」とは、「過渡的状態」において「ヌル・スパイク」を契機として発現する「自己組織化」である。
その自己組織化の原理とは、地球上において生命を生み出し、種の多様化と進化を推進してきた宇宙の摂理ー宇宙則ーであり、それが「行=形成力」と呼ばれるのである。
その意味で、循環生成を縁起と見なすブッダの着想は「自己組織化」あるいは心的因果を認める「強い創発strong emergence」という現代的概念の原型(prototype)と見なすことができる。
AIが仮に「意識」を獲得したとしても、それはこの刹那滅における「存在⇄非存在」の「どんでん返し」ができない限り、人間の「心」に似たものとはならないだろう。この「どんでん返し」は人間の身心から発する志向性に起因するからである。
実存、悟り、倫理的な生き方
一二縁起は、倫理的な主体として基礎づけを示す。
刹那滅は「行」の働きを介して自由意思を生み出す。それは十二縁起のポジティブな循環を引き起こす契機であり、人間はそれによって初めて、自分の意思で「道」を歩むことが可能となるのである。
それは「自己」を、宇宙における倫理的・実践的主体として認識することにほかならない。自由意思が、人間の「実存」のアルファでありオメガである。ブッダの「自らに依れ、法に依れ」という言葉は、まさにそのことを意味しているのだ。
十二縁起は、その実存の根拠を、また八正道はその実存の理想的なあり方を、それぞれ示しているのである。
十二縁起における「有→生→死→無明→行→識」という支の流れを、刹那滅を介する識の、八正道に導かれた循環生成という実在的なプロセスとして理解することによって初めて、人間は宇宙における独自の存在としての実践的主体となり得るのである。
「涅槃」あるいは「覚り」とは、そのような生き方において目指される究極的な理想である。このようなブッダの世界観・人間観は、次に示すフリーマンの言葉と共鳴し合う。
「理性とは世界を高度に同化する能力であり、そうして得られた広汎な知識を基盤として成立する<意味>が理性に強い力を与える。意識の役割は、理性の軌道を形成するに止まらない。それは、カオス的変動が相互作用を介して円滑に生じるための大域的な連関を生み出すのである」。
十二縁起の脳科学的解釈
十二縁起は、識の変化についての心的言説である。
とくに、識の流れの起点となる「死→無明」が、大域的アトラクターの生成とそのカオス的な遍歴に対応する。
p325より引用
十二縁起のしくみ、つまり、「悟りにおける精神のレベルアップ」に関わる脳のプロセスを、脳科学の観点から解釈した。
「気づき」とは?
「自己の感覚を、カオス理論でストレンジアトラクター(奇異な引力)と呼ばれる、秩序を具現化しながらも予期せず無秩序になるパターンに変えるもの」
カバットジン『マインドフルネスを始めたいあなたへ』
コメント 「気づき」について
気になったことをメモ。
フリーマン理論における「気づき」は、とてもありふれたこの瞬間の意識を指す。
一方、仏教の悟りに通じる「気づき」とは、「無心の気づき」とでも表現できる状態だ。これは、山下良道の考え方である。
つまり、気づきというプロセスに違いがあるように感じる。フリーマン理論は、悟りにおける気づきを特徴付けられるだろうか?
関連記事 仏教と脳科学
記事でまとめています。