記事の内容
迷える瞑想難民たちへ
この記事では、『悟らなくたって、いいじゃないか』という本を紹介します。
ブッダは、人生の「苦」から抜け出すには、出家して修行、すなわち瞑想を実践することで、煩悩を解脱した「悟り」に至らなくてはならないと説いた。
では出家したくないのはもちろん、欲望を捨てたくない、悟りも目指したくない「普通の人」は、「苦」から逃れられないのか? 「普通の人」の生活にブッダの教えはどう役立つのか? 瞑想をすると何が変わるのか?
タイで三十年近く出家生活を送る日本人僧侶と気鋭の仏教研究者が、スリリングな対話を通して「実践する仏教」の本質に迫る。
仏教に、とくに瞑想について知りたい人にはぴったりな内容です。
本書の内容の一部を要約します。
要約
本書の内容の一部を要約します。
2025年4月、私が読んで解釈し直した内容です。
きちんと説明するというよりも、イメージが伝わるようなまとめにしています。
ですので、内容をできるだけ正確に知りたい人は、ぜひ本書を手にとってみてください。
智慧(ちえ)と慈悲という仏教の核
- 智慧とは、価値判断のない、中立な、ありのままの世界。真理のお話。「方角がなければ迷いもない」
- 慈悲とは、智慧の世界を知りながら、あえて、物語の世界に関わり他者を助けること。実践であり、倫理のお話。抜苦与楽。
智慧と慈悲には隔たりがあるようにみえる。にもかかわらず、そのつながりを説くことが仏教の凄み。
たとえば、以下の例のように、単純には繋がっていない。
瞑想に優れる人は必ず人格も良い、とはいえない。瞑想と人格には関係性はあるが、シンプルではない。
仏教でに基本的な立場はこうなる。
智慧を知っているからこそ、自由に、遊ぶように、「遊戯三昧ゆげざんまい」の境地で慈悲の実践ができる。この真理と実践の循環こそ、仏教の一番の核である。
「唯一の正しい仏教があり、それは何にでも対処可能で完璧である」を止めよう
一つだけの正しい仏教はない。
悟りにも、瞑想方法にも多様性がある。
だから、自分自身の目的を意識し、自分専用の地図を作るべきである。
「唯一の正しくて完璧な瞑想法」があり、それはすべてに対応できる完璧なものだという幻想を捨てよう。
「この宗派、この先生が教える実践は、こんな目的地に向かうこと」を意識し、それを自分で選択しよう。自分に合う先生の人柄、方法を選んでいきましょう。瞑想する、ということは、選択することでもある。自分の生き方の方向性を選択している。この選択に自覚的であろう。
瞑想の方向性としては以下のような態度がいいバランスだろう。
「瞑想したからなんでも上手くいく」ではなく、瞑想すると、上手くいかなくても気にならなくなる。
日本人には受け入れづらい「輪廻転生」というテーマ
テーラワーダ仏教は、人生否定、来世志向、二元論的な傾向がある、とも解釈される。
ミャンマーやタイでは、輪廻転生を本気で信じている人が多い。だから、瞑想、修行の実践にも、輪廻転生という価値観から影響を受けている側面がある。
瞑想が「自己の強化」に繋がってしまうケースがある
ある感情を邪魔なものだと強く意識しすぎると、よりその対象が際立つことになる。その結果、さらなる否定につながる。すると、感情が乏しくなり、日常での人間関係がうまくいかなくなる。解離や回避などにつながる。この状態を肯定する師匠もいるも事実。
なぜこうなるのか?
それは、「私ー対象」のフレームワークのなかで瞑想してしまうから。
「怒り」や「痛み」などの対象だけを客観視すればするほど、それを「自己」が見ているという構図になってしまう。つまり、「自己」の方の存在もより際立つことになる。
これは、仏教が目指す「無我」とは異なる。
本来は、「怒りや痛み」という対象だけでなく、「自己」も含んだ現象の流れというプロセス全体を平等に観察する、気づく。
そして、「観察する気づき」自体も流れる現象の中の一部。
「頭だけを出した状態で、川に流れていく」ようなもの。
こうした智慧の前提として、「定(じょう)」がはたらく。
あらゆる現象を「だよね〜」と落ち着いて受け止められる力がベースにあるといい。この受容力を仏教では、「定」と言う。慈悲の基礎でもある。
悟りについても同様。
智慧の境地からは、「私が悟りを追い求める」という構造、意味が薄れていく。悟りは結果であり、悟りそのものを語ることにあまり意味はない。
常識的価値から超越するなら、悪いことだって抵抗なくできてしまうのでは?
そうならないために、仏教は修行体系を用意している。だから、その体系にしたがって実践するべき。
戒・定・慧(え)の三段階。この順が智慧に至る道である、と仏教は修行体系を作っている。
仏教の体系では、基礎的な道徳を染み込ませつつ、智慧にいたるようになっている。
だから、戒律を守る限り、瞑想実践者は社会的にも悪い人にはならない。
ブッダも、真理を表す法と倫理的規範である律をともに学べ、という態度。
智慧の方向性のみ目指す態度は、逆に、智慧に執着してしまうことになる。だから、慈悲の方向性、つまり、常識的世界での振る舞いに戻る方向での実践も大事。この循環こそ、仏教がもつシステム。
そうして、「今ここで遊ぶように生きる」という遊戯三昧な態度へつながる。
すると、慈悲の現場では、現象や他者のありのままを受容して、そこで抜苦与楽な対応をとれる。これは、「よき縁」となす実践だ。
無我であるからこそ、臨機応変な抜苦与楽な働きかけができる。まさに、ブッダもそうしていた。
まとめ
プラユキ氏のこの言葉を本書のまとめとして引用します。
何はともあれ、物語の多様に自在に応ずるのが慈悲の本質なんだから、その現れ方に多様性があるのは当然だよね。そしてもちろん智慧のほうも、「z軸」が一度できたからといって、それで探究が終わるわけでは全くない。瞑想すればするほど、智慧もどんどん深まっていくし、悩み苦しむ人たちに関わっていく過程でダイナミックな智慧もより発展していく。それが「悟り」なのかどうなのか、どこまでが悟りでどこまでが悟りではないのかといったことに関しては、私自身は、もうあまり関心を持っていません。そういったものよりも、「いま・この瞬間」に生じてくる出来事や現象に心を開いてあり続け、出会った人たちのよき縁となり、笑顔にしていくお手伝いを、タム・レンレンと続けていきたいと思います。
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