記事の内容
この記事では、
角川祐司の「だから仏教は面白い!」、「仏教思想のゼロポイント」という本を紹介します。
ブッダの仏教についてのわかりやすい入門書。
本質をごまかさずに説明しようとする。
とてもおすすめです。
『だから仏教は面白い!』から一部を要約
2025何5月に私が読んで解釈したものです。
より正確なものを読みたい方は、本書を手にとってみてください〜
ブッダの教え 解脱
私たちは欲望の対象を喜び楽しんで、それをひたすら追い続けるという自然の傾向性をもっている。放っておいたら私たちはそちらのほうへと流れていくのだが、その流れに乗ることなく、現象をありのままに観察しなさい。そうすれば現象の無常・苦・無我を悟ることができ、それらを厭離(厭い離れる)し、離貪(貪りから離れる)して解脱に至ります。
人間らしさを否定する。つまり、非人間的。
この価値、意義は、解脱して涅槃にあること。ここが、仏教思想のゼロポイントである。
涅槃、つまり、条件づけられていない、ただあるだけでいい状態へ。
私たちが居るのは有為の世界なんですね。条件によって形成された、つまり縁起によって成り立っている現象の世界に私たちは生きている。仏教の原則的な目標は、その有為の条件付けられた状態から、無為の条件付けられていない状態、即ち涅槃へと至ることです。
仏教という運動 ブッダと大乗仏教の違い
仏教」というのは、総称して言うならば、そのような「オリジナル」も「同人誌」も全て含んだ、思想の維持・変化・発展の運動の総体のことです。
オリジナル、二次創作、三次創作、スピンアウト、メディアミックス、全てを含んだ総体が、「仏教」という思想運動であると。
ゆえに、唯一の正しい仏教がある、とは考えない。
大乗仏教は2次創作的だが、思想的運動的価値はある。
とにかく様々な人たちが、「これこそが仏教の真意義だ」「これが理想的なブッダ・ストーリーだ」ということを言っていった、その運動の総体が大乗ですから、大乗というのは一枚岩のものでは全くないわけです。
ブッダが解脱を解くのに対し、大乗仏教では現実性も重視する傾向がある。
大乗仏教徒の生は、現実的には毎回が「過程の生」であり、「成仏」という最終的な目標の達成は、どの生においても、常に無限遠の彼方にある。 しかし、たいへん興味深いことですが、このことが逆説的に、大乗仏教徒が「現実性」と関わりながら「この生」を生きることを肯定してくれるんですね。
無我
ブッダが否定する「我」の意味を誤解してはいけない。
「常一主宰」の実体我を否定している。
伝統的な用語で言い換えれば、ゴータマ・ブッダがそこで否定しているのは、「常一主宰」の実体我なんですね。「常」というのは常住ということであり、「一」というのは単一のこと。そして「主宰」というのは、主としてコントロールする権能を有する、つまりコントロールする能力があるということです。ですから、常に存在し続けている単一のものであって、実体として他から規定されることがないゆえに自分に関しては全てコントロールできる、そのような存在のことを常一主宰の実体我、即ち「アートマン」というわけですね。
現象のなかに「常一主宰」の実体我はない。
なぜなら、現象には三相があるからだ。
三相
- 無常
- 苦
- 無我
現象のすべては、縁起、つまり、条件づけられたものだ。ゆえに、永遠に続くものはない。常はない。無常である。
無常であるがゆえに、満足は永続しない。つまり、不満足のサイクルに終わりがない。ゆえに、苦である。
苦であるがゆえに、満足も、生と死、老い、など、自分をすべてコントロールすることはできない。ゆえに、苦は無我である。
私たちは5つの要素から成る。五蘊という。五蘊すべてについて三相が成り立つ。ゆえに、現象世界のすべては無我だ。
五蘊
- 色
- 受
- 想
- 行
- 識
無記
現象の世界を超えたところになら我はあるのか?
ブッダは現象内については三相を主張した。しかし、現象を超えた領域については沈黙したと解釈するべきだ。
沈黙のことを「無記」と呼ぶ。
有るとも無いとも言わない態度だ。
経験的、個別的なまとまりである仮の個人までは否定していない
ブッダは「認知のまとまり」としての私は認めている。
身体を持つ、個体として生活していく、経験としての私である。
各個人に、この認知のまとまりとしての1セットがある、ということは否定していない。
ブッダが無我で否定したのは、 「常一主宰」の実体我のこと。
そのような実体我、即ち、変わらない「私自身」というものは存在しないけれども、無常であり苦であるものとして、常に流動変化を続けているところの、眼耳鼻舌身意/色声香味触法の認知のまとまりというものは、人それぞれに存在します。 繰り返しますが、そうした眼耳鼻舌身意/色声香味触法という認知の要素のどこを探しても、そこに固定的な実体というものは存在しない。「核」になっている実体はないわけです。
業
業とは、「後に結果をもたらすはたらき」という意味。やったら終わり、ではない。
インド思想の世界観が背景にある。
これまでに積み重ねてきた行為とその作用が蓄積されて、その蓄積されてきた結果として、いま・ここに私たちは現存在しているわけです。それが、インド思想の基本的な世界観になります。
輪廻
「無我だからこそ輪廻する」
「認知のまとまり」としての私の変化は、個体の生死も超えて続いていく。業は残る。
変化するプロセスそのものを輪廻と呼ぶ。ゆえに、無我だからこそ輪廻する、と言える。
いわゆる、「生まれ変わり」を指しているのではない。魂のような「主体」が続いていくことではない。
そして、そのプロセスは「個体」と呼ばれる現象の諸要素の集合体に、「死」が訪れても止まることはない。なぜなら、積み重ねられてきた業の潜勢力が、そこで雲散霧消するということはあり得ませんから。貯めこまれてきた業の潜在的なエネルギーは、また次の「個体」において、結果を発現させずには済まない。ゆえに、「死んだらそれで終わり」(断滅論)というのは、仏教の内在的な論理からすれば、むしろ不自然な考え方になるわけです。
業の潜勢力を条件として生起した現象の或るまとまりが、かりに「衆生」と呼ばれていて、それが継起して現象し続けることが「輪廻」であると。だから、「衆生とは業を自らのものとし、業の相続者であり、業を母胎とし、業を親族として、業を依りどころとするものである」とも言われるわけですね。
生まれ変わりのイメージのように、死と誕生だけに注目する概念ではない。流れ、プロセスそのものを指す。
いま・この瞬間の私たちが変化を続けながら生成消滅を繰り返しているという、そのプロセス全体のことを指してそのように言うわけです。ですから、輪廻というのは、いつか自分が死ぬ時だけに起きる神秘現象ではなくて、この瞬間の己自身に生じ続けている現実であるわけです。あくまで、仏教的に言えばですが。
だからこそ、輪廻は悟りへの実践の前提となる。いま、ここの輪廻を観察する。
いわゆる「悟り」、「解脱」というのは、そのようなナーマ・ルーパが生成消滅しているサンサーラのプロセスそのものを、ありのままに知り見る(如実知見する)ことによって生じるんですね。
経典との付き合い方
ブッダの教えをより正確に知ろうとするなら、業と輪廻の世界観は外せない。しかし、輪廻を信仰しなければならないわけではない。
経典との同一を必ずしも目指す必要はない。
やはり宗教であるせいか、「自分自身がこう考える」ということを、なぜか「ゴータマ・ブッダもそう考えたはずだ」という形で、教祖の意見と同一化させてしまう人が散見されます。私としては、「ゴータマ・ブッダは、このように考えていた。ただし、私自身はそれに同意しない」ということで、全く構わないんじゃないかと思うんですけどね。
『仏教思想のゼロポイント』からの要約
遊び
涅槃からは、私という存在すら、公共物のように感じる。存在そのものを純粋に楽しむ。遊び、遊戯三昧。
仏教に多様性があるのはなぜか?
智慧の世界を体感した後に、また物語の世界へ関わる。その方法には多様性がある。選択の余地がある。
解脱者たちにとって、その後の行為のすべては遊びである。
物語の世界に戻らず、1人でそのまま完結したっていい。
この選択の多様性が、仏教の様々な流派につながるのではないか。
仏教の条件
悟った上で、再び物語の世界に関与すること。
ゆえに、教えを説く者が、物語世界の外部(涅槃、悟り)を体感していることが条件である。
一見、ブッダの教えとは差異が大きいように見える大乗仏教も、この条件を受け継いでいる。
本来性(涅槃)と現実性(世間)
大乗仏教では、涅槃だけではなく世間も重視するが基本方針である。
仏教の現場を、本来性から現実性へ移した。もちろん、本来性を知った上での現実性である。
つまり、ブッダの方法論により本来性を知りつつも、現実性との交渉の仕方についてはブッダとは異なる道を作った。ブッダの教えとは異なるような経典を作った。
また、本来性と現実性の区別すらない、と解釈する龍樹のような立場もある。大乗仏教のなかでも、本来性と現実性との関係性の立場は多様である。
私自身にとって、「仏教を生きる」ということは、この覚者たちの志を引き受けて、右の「本来性」と「現実性」との関係のとり方という問題を、己の存在する文脈の中で、自分自身の問題として生き直し、またそれを再び適切な仕方で、語り直そうとすることである。もちろん、そのような試みを現代人がなお「仏教」と呼び続ける必要があるかどうかは、また別の問題であるけれども。
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