記事の内容
今回は、『働くということ 「能力主義」を超えて』という本を紹介します。
人を選ぶということ。
能力主義ということ。
その前提を揺らします。
要約
本書の一部を要約します。
能力主義という洗脳、信仰
選抜、采配
わたしたちの骨の髄まで染み込んでいる価値観。
生まれや身分で人を選んではいけない。
けれど、能力によってなら人を選んでいい。
できる人はたくさんもらっていい、できない人は貰いが少なくなる。
しかし、「能力」という概念は仮のものにすぎない。
能力なんてどこにもない。ゆえに測定もできない。
にもかかわらず、みんなが、能力向上すべきという価値観を信仰しきっている。
それに、個人の能力は生まれに依存する。ゆえに、能力主義でも、不平等は解消されず、不平等を納得させる別の価値観が浸透しただけである。
問題は、ほんとうに個人の能力の問題なのか?
前提を疑う
本当は、組織として策を講じるべきところを、個人の能力の問題に矮小化しているのではないか? 個人の能力の問題にしたほうが都合のいい誰か、つまり特定の人の利害と結びついたまま、問題が「設定」されていないか? 分かりやすさが実際の有用性より優先されるなど、問題解決用に問題視されていないか?
個人の能力から関係性へ
抽象的な処方箋。
組み合わせを見直し、変えていこう。
リアルな企業のケースから垣間見えるのは、人が人を「正しく選ぶ」という驕り高ぶった感覚に陥ることなく、偶然の出会い・出来事をやみくもに否定することのない取り組み。個人や状況に良し悪しをつけることなく、ただただ他者とともに「弱くて強い」連帯をしていく姿と言えます。シンさんのみならず、本当はどこの職場でも「働くということ」を考えた際に足元で起きていることだと思っています。
一元的な基準ではこぼれてしまう人に、その人に合った役割、在り方を提案できるのが脱・「能力主義」。つまり個人の能力一辺倒ではなく、凸凹の持ち寄りという「関係性」でなんとか前に進む方向性を提案できるというのが組織開発の強みなわけです。
一元的な正しさから降りる。
「絶対にこっちが正しい」「あっちが間違ってる」のような思いが微塵でも頭をかすめたら、それは危うきサインです。大の大人が社会や組織で往々にして争う内容はそう変わりません。誰が/どっちが/何が「正しい」のか、の議論が皆大好きですが、そこから抜ける、下りることが何よりも大切なことです。
大事なのは、個人単体で見て、どっちがいい/悪い、という議論にはまってしまわないことです。思考すべきは、今いるメンバーの志向性とやっている事業、それを推進する組織体制とが、嚙み合っているか/いないか、という点です。
実践
正しさから降りる。
他者ではなく、自分のモードを選ぶ。
ある一元的な軸以外にもあるよね、と見方を転換する。
選ぶという言葉は、他者にではなく、自分に使う。
最終的には、「いかに状況に合わせて自身のモードをコントロールすれば、気持ちよくメンバーが動けるか?」という問いに変わってきたのです。本当になんというか、人間の無限の可能性を感じます。
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