AIをちゃんと考えたい
AI、人工知能に関する様々な言説の背景を、思想・哲学的に整理してくれる議論を求めてはいないでしょうか?
この記事で紹介する、情報学が専門の西垣通さんの著作が参考になります。
なぜなら、
・生命と機械の違いは?
・AIには何ができて何ができないの?
・シンギュラリティ仮説ってどうなの?
・AIという科学を裏付けする思想・哲学はあるの?
このようなテーマが、包括的に議論されているからです。
この記事では、これら論点を考えることのできる枠組みを掲示します。
記事を読み終えると、哲学的な思考を持って、AIを深く掘り下げる入り口がわかるはずです。哲学の新しい流れ、著者の情報学的な知見、これらが合わさり、シンギュラリティ仮説やトランス・ヒューマニズムの問題点を鋭く分析されています。
- AIをちゃんと考えたい
- AI原論 神の支配と人間の自由 西垣通
- 基礎情報学
- 生命とAI(機械)の違い
- オートポイエーシス理論と心
- 思弁的実在論はシンギュラリティ仮説の根拠となれるか
- 生命と機械では、「時間」がまったく違う
- AIを宗教にしないために
- まとめ
AI原論 神の支配と人間の自由 西垣通
基礎情報学
西垣通氏の基礎情報学については、以前にもまとめています。こっちを読んでから、本記事を読むとよりわかりやすいはずです。
そんな基礎情報学のメインテーマはこちら。
意味作用に着目し、生命/心/社会をめぐる情報現象を、統一的なシステム・モデルによって論ずること
この視点ありきで、AIを分析するわけです。
面白そう!!勉強になりそう!!
生命とAI(機械)の違い
生命は自律系であり、機械は他律系である。
自律系の特徴とは、「自らのルールを自分で作ることができること」だと著者は言う。これは、人間がプログラミングするAIとは全く違う。確かに自律しているように見える機能を果たすAIはある。しかし、AIの中身である記号計算やニューラルネットは、単なる記号表象に過ぎず、本質的には自律系にはなりえない。人間が外から記述したものだからだ。
一方、生命は自分でルールを作っていく。だから、外部からその生命体の行動を完全に予測することは不可能である。この不可知性こそが、自由意志や社会的責任の本質であると著者は強調する。
オートポイエーシス理論と心
オートポイエーシス理論では、「観察者の視点」が問題になる。だから、心の主観性にもつながる閉鎖性が特徴とみなされる。外部から見て、心は記述できない。脳を模倣すれば、心を持ったAIが作れるという意見を著者は否定する。
機械については客観的に作動を分析すれば十分だが、生命体についてはそれだけでなく、 生命体が構成する主観世界 にも着目しなくてはならない、ということになる。これを無視すると、人間を含め、あらゆる生命体は すべて物理化学的な単なる機械と等しくなってしまう。
心とは一人称でしか語れないのだ。だから、脳だけから心を語り尽くすことはできない。そして、シンギュラリティ仮説は脳決定論にもとづいた人間機械論だ、と著者は批判する。
オートポイエーシスについてはこちらでまとめている。
心脳問題についてはこちらが詳しい。
思弁的実在論はシンギュラリティ仮説の根拠となれるか
人間の主観と関わりなく、世界そのものに到達できるとする「素朴実在論」は、カントから始まる批判哲学によって完全に否定されている。現在では、世界の把握は人間との関係の中で行われるにすぎないとする「相関主義」が主流だ。
これらの議論が、AIが人間を超えた普遍的知性を獲得できるかどうかを考える際には欠かせない。人間という存在なしに、客観的世界を捉えられる知性の可能性を議論する必要があるからだ。さらに、AIという分野では、他の自然科学分野とは違い、観察者の視点が重要になってくる。これはつまり、相関主義に関係してくる。
「AIがAIを創って進歩していく」というシンギュラリティ仮説の議論は、相関主義哲学のもとでは信頼性を失うからだ。
われわれ人間と無関係にそれ自体として存在するもの、つまり即自的存在にコンピュータがアクセスし、これを記述できなければ、人間を超えた「普遍的知性」などありえないはずだ。
相関主義を乗り越えるため、客観的現実に到達できるはずだとする「思弁的実在論」という思想がある。それは、人間から独立した世界そのものの観察・記述を認定するので、シンギュラリティ仮説を擁護することになるかもしれない、と言われている。しかし、同時に、AIの進歩について厳しい警告を発してもいる思想である、と著者は強調する。
この思弁的実在論とAIの可能性ついての議論がこの本のキモでもある。しかし、哲学、科学哲学の細かい議論が要求される。思弁的実在論について詳しくは、本書や次の本を読んでほしい。面白いけど、難しいかも。
流れはこの記事が見やすいです。
生命と機械では、「時間」がまったく違う
機械と生命を分かつ違いとして、時間についても考察されている。機械は過去の最適化しかできない。一方、生命の時間観は、機械のような客観的な時間観とははっきりと異なる。生命は今に生き、今この瞬間に自分のルールを自分で変えていく。
生命体が 身体をもっていま刻々と生きていること 自体が、オートポイエーシス(自己創出) の連続であり、他方それが生命体の行動の不可知性のベースになっているのである。
さらに、過去にこだわることしかできないAIのせいで、生物が本来持つ創造性が損なわれてしまうのでは、と著者は懸念を示す。
AIを宗教にしないために
シンギュラリティ仮説やトランス・ヒューマニズム論は、なぜこんなにも欧米でもてはやされるのか?
一神教的な考え方を重ね合わせているからだ、と著者は見抜く。「絶対知すなわち神の知」と、汎用AIの相性がいいように見えているのだ。つまり、西洋的なものの見方を、AI論に希望として押し付けすぎているのだ。その現れとして、シンギュラリティ仮説や、トランスヒューマニズム論が楽観的に唱えられすぎているのだ。
本書は、こんな言葉で締めくくられる。著者の思いが感じられてとてもよかった。
われわれが真に目指すべきは、AIという仮面をかぶった世界支配の野望を批判的に相対化しつつ、人間の生きる力を根源的に高める活路を切り開くことなのである。
西垣氏と哲学者の千葉雅也氏が対談しているこちらの記事も必見です。gendai.ismedia.jp AIについては、他の記事でも注目しています。よかったらどうぞ。interaction.hatenadiary.jp
まとめ
・生命は、自らのルールを自分で作ることができる
・心は一人称でしか語れない
・シンギュラリティ仮説の根拠には、科学哲学的な議論がいる
・生命と機械では、時間感が全く異なる
・AIの盛り上がりは、まるで宗教のよう
AIを論じるためには、科学と哲学の深い議論が必要です。にもかかわらず、世間では、簡単な予測がまかり通っている。だからこそ、この本のような分析が必要になるはずです。
本ブログが、誰かの自由につながったのなら嬉しい。