京極堂シリーズ4作目 「鉄鼠の檻」
「拙僧が殺めたのである」
京極夏彦氏によるミステリー小説4作目である鉄鼠の檻。漫画版もついに完結しましたね。とても再現度が高く楽しく読めました。今回は改めて、「犯人の動機」について考察してみたいと思います。
ミステリー史上、最も驚愕的な動機であると言われる本作。私自身も、その真相を知った初読では、ホントにたまげました!!
よくまあ、こんなミステリ考えるわ...
・ミステリー好き
・宗教好き
・禅とは?
・仏教哲学、言語哲学
こういったジャンルに興味がある方にオススメな作品です。読んで面白いし、勉強になる。最高です。
以下、ネタバレありです。ご注意を!!
- 京極堂シリーズ4作目 「鉄鼠の檻」
- 犯人の動機は?
- 禅、仏教とは?
- 彼にためらいや後悔がなかった理由
- 妬んでいるようには見えない
- 「なぜ」と問うことの無意味さ
- 「悟る」の定義は?
- 慈行について
- 檻、言語、脳髄、自己言及
- まとめ
- 関連記事
原作は分厚くて読みにくい。そういう方は、完成度の高い漫画から入るのがオススメです!!
以下、ネタバレが含まれます!!まだ読んでいない方は、ご注意を。
犯人の動機は?
悟ったものを順に殺していった
これが、事件の真相だ。それならば、なぜ?どうして?と犯人に問いたくなる。この動機こそ、この作品のキモだ。そしてこの動機は、「禅」というテーマと大きく関わる。犯人である仁秀について色々と考えなければ、真相は見えてこない。仁秀について考察してみる。
禅、仏教とは?
やはり、今回の物語の本質をつかまえるためには、仏教と禅の理解が欠かせないと思う。作中でも、禅の歴史、悟るとはどういうことかについて説明がある。京極夏彦の説明は、さすがにわかりやすい。
悟りへの道を示した「十牛図」というものがある。この説明も物語での欠かせない要素になっていた。
ぜひ、もう一度確認してみてほしい。以下のサイトが参考になる。
仏教の本質を説明するのは難しい。ここでは、「空」というアイデアにだけ触れておく。
これもまた言葉ではとらえづらいが、
「有るとも無いとも言える」
「有るとも無いとも言えない」
ということだ。
有と無の上位概念は言語ではありえないように感じる。
しかし、空とは有と無を包摂する。
この世のすべては、物理的な世界も、心の世界もまるっとすべて、空なのだ。
彼にためらいや後悔がなかった理由
仏だから”殺した"。これが、仁秀の認識だった。つまり、悟ったものは人ではなく仏である。「殺す、生きる」という概念がそもそも当てはまらないのだ。我々の「殺す」ではない。だから、殺す、殺人をしているというつもりは、彼にはなかったのだろう。
妬んでいるようには見えない
彼は犯行理由として、「私は悟れないから、悟ったものが妬ましかった」という。しかし、彼の立ち振る舞いからは、「妬む」という人間的な感情を読み取ることができない。だから、犯行理由が妬みであるということを、私はそのままは飲み込めない。
彼も禅僧である。つまり、言葉の限界さをよく知っている。だから「妬ましい」という言葉は、あくまでも私たちを納得させるための方便にすぎなかったのではないか。彼の言葉を文字通り受け取るのは、短絡的な気がする。
「なぜ」と問うことの無意味さ
なぜ、とは物事に因果関係を求めることだ。因果関係は脳の大好物だ。だから、殺人があれば、そこに理由があったのだと思い込んでしまう。しかし、仏教は、因果関係ですら ”空” であるとする。固定的な因果などないのだ、と。
今回は、禅の世界にいる者、仁秀が起こしたことだ。だから、彼の論理は、私たちの論理では理解できない。次元がずれているのだ。つまり、最初からこの「なぜ」は、(私たちの)言葉による説明を受けつけない。だから、言葉を武器にする京極堂は、「最初から勝負になっていない」と認識していた。
冒頭にて按摩である尾島が、仁秀に尋ねている。
「だ、だから...殺したので?」
「そうとも言える。またそうでないとも言える。」
この仁秀の返答はまさしく、「空」の境地である。彼は、自分のことを悟ってはいないと言うものの、たしかに「空」を生きている。言葉が無効になる領域である。だから、単なる妬みが犯行理由だとは言いづらい。
つまり、本当のところの動機は、悟っていない私たちには、実感できないのだろう。
「悟る」の定義は?
悟っていないものに悟ったものの思考はわからない。しかし、仁秀は犯行中に悟っていたわけではない、と自分では言っている。そうなると、この疑問に答えるには、「悟っている」という状態とはどんなものかをつかまねばならない。しかし、ここからは言葉では説明できない領域だ。難しい。
「悟りの定義」の問題に行き着いてしまう。本作では、科学では悟りを捉えることはできない、という考察もされる。科学が分析できるのは、脳波などの脳の状態にすぎない。そこに、心である悟りは見当たらない。科学哲学、心脳問題の核心に関わるテーマでもあり、とても面白い。
心と脳の関係について興味がある人は、次の記事を強く勧める。
今回の事件の真相を知るには、言葉による説明よりも、仁秀という個人に注目したほうがいいのではないか。彼が一体どんな人生を歩んできたのか、これを想像し、事件における彼の心も想像するしかない。
仁秀は炎に包まれる大日如来を目にし、ついに悟る。漫画ではとくに印象的だった。この一瞬の中で、彼にどのような変化があったのだろうか。彼には、あそこで死んで欲しくはなかった...
慈行について
彼については、はっきりとした説明がないまま終わってしまう。「中身が空っぽ」「形だけ」などの、榎木津、京極堂の言葉だけだ。確かなことは、やはりわからない。情報を探していて見つかったこちらのブログでは、彼は一種の記憶障害ではないか、としている。なるほど、確かにそれならば、彼にとってはあの空間こそが全てだったのだろう。自身が結界そのものだと、彼が言いたくなる気持ちもわかる。彼にも死んで欲しくはなかった...
檻、言語、脳髄、自己言及
禅という、言葉では説明できないものを、言葉の塊である小説で描く。これは、この小説そのものが、言葉による檻を意味するのではないか。それならば、小説を読んでいる私たちの言語世界そのものも、まさしく檻である。メタ的だ。作中には、脳髄という檻に言及するシーンもあった。そして、言語は自己言及を作り出す。これもまるで檻のようだ。これらは、かなり気になるテーマ群である。
参考文献を上げておきたい。
・ゲーデル、エッシャー、バッハ
自己言及という構造から、生命、意識に迫る。歴史的大著。
・意識と本質
禅の本質と、言語哲学。
・論理哲学論考
「私」と言葉と世界の関係とは?
こちらの記事でまとめています。
まとめ
以上、私が感じたことをまとめてみました。
みなさんは、どのように解釈したでしょうか?
京極堂シリーズは最高に魅力的ですよね。最新刊が待ち遠しいです。
こちらでも、京極氏について触れています。よかったら、どうぞ。
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