記事の内容
苫米地英人の「スピリチュアリズム」という本を改めて読んでみたい。
令和の時代になったが、日本人は、スピリチュアリズムやオカルトから、自由になれただろうか?
あまり変わっていない状況に思える。ただ単に、テレビを見る人が減っただけ、ではないだろうか。その分、YouTubeなどを見れば、スピリチュアル系の動画がわんさか再生されている。
つまり、日本人の「スピリチュアリズム」に対する教養は、上がっていないのだ!!!これは、非常にまずい状況だと思う。
スピリチュアリズムやオカルト的な理由で、経済的な搾取する。このような事例が問題になる。
それに、ミニカルトが、より生じやすい状況ではないだろうか?個人が発信できる時代とは、個人が個人を洗脳しやすい時代とも言える。
だからこそ、他人に操作される人生の打破を長年唱えている、苫米地英人の主張は、やはり重要だ。彼が主張する「心と脳の使い方」は、示唆に富む。
今回の記事では、彼の初期の著作である「スピリチュアリズム」の内容を振り返りたい。
守護霊という概念の歴史
キリスト教的カルトにあるゴーストという概念・・・さまよえる魂
日本の鬼神・・・妖怪の類
日本でいう守護霊は、これらが融合した概念。
しかしこれは、「輪廻転生」の概念と矛盾する。死んだ人は生まれ変わるはずなのに、なぜ守護霊としてさまよっているのか?
どんな宗教画がカルトなのか
カルトかどうかは、どのようにして線引きをするのか。
はっきりとした線はない。
社会がすでに持っている価値観からどこまで乖離しているか。
キリスト教や仏教だって、発端の時期には、社会から見たらカルトだった。
信者の数の違いでしかない。
教義の内容が無難であるならば、「経済的搾取があるかどうか」でカルト判定。
主張そのものが、社会の価値観と相いれないものならば、カルト。
宗教という論理を甘く見るな
なぜ、オウム真理教に、東大理三などのエリートたちが、はまっていったのか??
宗教には、数千年ものあいだ構築されてきた抽象的なディベート空間が存在しているからだ。
カトリックなども、極めてIQの高い世界を作り上げている。中心的なイエズス会の神父になるには、博士号を3つももっていなければいけないという。
オウムが教義としていたチベット密教の論理も圧倒的だ。何の知識もないわたしたちには、論破することが絶対にできない。だから、知的エリートたちは論破され、論破された対象にはまっていったのだ。
仏教の神髄
「空」・・・すべての存在には実体はない。あるともいえるし、ないともいえる。
これだけを突き詰めたのがチベット密教原理主義。すべてが空なのだから、殺人も肯定されてしまう。
本来のお釈迦様の論理は、中観。
「仮観」とは、役割、機能があるから存在しているのだということ。私も、あの人も自分の役割を果たしている。この仮観と空のバランスをとったものが、中観。
お釈迦様から始まり、龍樹が完成させた「中観」こそ、本来の仏教。人殺しの肯定などということには、ならない。
苫米地は、チベット密教こそカルトと思える、と述べている。
スピリチュアリズムは、極めれば「この世はどうでもいい」となるのだから、社会にとって危険なところに行き着いてしまう。その結果が、オウム真理教だった。
そして、オウムの教義に論理をあたえた存在こそ、中沢新一である。彼のチベット密教の論理には、危険な側面がある、と苫米地は本書で強く批判している。
この本に対する中沢の反応はどうだったのだろうか?
苫米地氏の仏教の説明はわかりやすい。
神髄ともいえる、空、仮観、中観の本質を分かりやすく説いてくれる。さらに深い解説をほかの本では期待したい。
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臨場感空間の強さ
人間の脳は、情報空間にたいして臨場感を持てるように進化してきた。だから、人は小説を読んで泣けるのだ。
しかし、ここで困るのが恐怖だ。恐怖という臨場感は圧倒的に強い。
これが、私たちの生活のいたるところに存在している。
お墓にいけば、怖さを感じる。立派な神社にいけば、何かを感じる。私たち日本人にとって、臨場感が強いのだ。ウイルスのように、私たちの無意識に感染してくる。
これは、日本人は生まれた時から、恐怖を利用した「祟り」の歴史、文化によって洗脳されているからだ。それほど、恐怖に洗脳されやすい。日本教によって、自分で自分を洗脳するループに入っている。オウム信者が洗脳のループにいるかのようだ。
スピリチュアリズムの場合も、日本教によって植え付けられた死への恐怖を利用している。そして、厄介なのは、祟りのせいだ、などと、人々を思考停止させる存在だ。
本来やるべきことは、各個人が自分自身で徹底的に抽象空間での思考をすることだ。それによって、自分で乗り越える必要がある。
だからこそ、抽象的な思考の訓練を、苫米地は長年主張している。
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当時の知識人たち
オウムに関して、今となっては驚くべきことだが、当時の知識人たちの中にはオウムを肯定的に捉える者もいた。(もちろん、事件の前だが)
日本の知識人としては、超有名だった中沢新一が担いだという事実は大きい。
博覧強記で知られる荒俣宏や、宗教学者の島田裕巳などもだ。
つまり、それほど、宗教の論理空間というものは、頭のいい人間を引き付けるということだろう。その論理を実行している集団、まさに宗教現象として、オウムという存在はとても興味深かったに違いない。
現在、彼らはなにをおもうのだろうか。
まさに、本書をよんでどんな反応をするのだろう。
島田裕巳氏は、オウム事件の反省として、著書を書かれている。読んでおくべきだろう。
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