好きをブチ抜く

「好き」をブチ抜く

本、映画、科学、哲学、心理、すごい人の考え方など。あらゆる情報を編集したい。

【頭が良くなる本は効果があるか?】「頭がいい」っていい加減なんなの??

 頭がいいってなに?

  • 「頭がいい」ってなんなんだよ!!
  • 「頭がいい悪い」っていい加減うるせえ!!
  • 頭が良くなる本って、本当に効果があるの?
  • 頭が良くなる本に、"あなたは"どんなことを期待しているの?
  • 脳と心の関係を考えることで、科学リテラシーが身につく 科学哲学入門へ

 

これらテーマにピンとくるだろうか?それならば、ぜひ本文を読んでみてほしい。とくに、敏感で右往左往しがちな10代20代の若者、中高生、大学生にはきっと役にたつはずだ。

 

「頭がいいかどうか、勉強ができるかどうか」などの物言いには、わたし自身いい加減うんざりしている。そういった価値観に巻き込まれた時には、子供の頃からずっと違和感を感じていた。だから、頭がいいことの本質的な考察を探していた。

 

今回、言葉にしてみて改めて、「頭がいいかどうか」という比較軸そのものがどうでもよくなった。より自由になれました🐳🐳

 

 

 

 

 

 

脳がわかれば心がわかるか

 

今回参考になったのはこちらの本。

 

 

ちまたにあふれる脳と心の関係について、私たちが陥りがちな誤解を科学的、哲学的に分析する。まさに脳科学リテラシーが身につく本。この本の目的は、「日々提供される脳情報を理解するための枠組みと材料を掲示すること。

 

今後、ますます脳科学の成果は、大量の情報となって私たちに降りかかります。すると、この本の視点が私たちにとってどれほど必要なことか、よく考えればわかると思う。とくに中心的なテーマは「心と脳の関係」だ。これをどのように私たちは考えるべきなのか。現状私たちは、この点についてあまりにも無知と言える。


個人的には、脳のしくみだけで人間全てを説明できる、という主張にはずっと違和感を感じていた。この本はタイトル通りのテーマを掲げ、見事にわれわれ人が陥ってしまいやすい誤謬を脳科学、哲学の歴史を紐解きながら指摘してくれる。

 

科学哲学の入門としても秀逸。科学史における最大級の難問、つまり心脳問題に漸近すればするほど、「科学とは何か」が浮き彫りになっていく。そもそも科学とは何かを説明することそのものが、とてもむずかしい。科学とは何かを知ろうとすることで、科学を絶対だと思うような盲信は薄れるはずである。

 

 

 

 

 

 

「頭が良くなる本」は効果があるのか?

さてそんな本書の中で、「頭が良くなる本」というテーマの分析はとても面白く、私自身の長年の疑問が整理された。読めて本当に有意義だった。ちまたでは、最新の脳科学の知識をうたい、「頭を良くする本」が数多く出版されている。とても人気なジャンルだ。

 

しかし、頭が良くなるってどういうこと?、という根本的な疑念が私にはずっとつきまとっていた。身の回りにはたしかに「凄いやつ」はいた。けれどもその能力をただ単に頭がいい、という言葉だけで片付けるのは腑に落ちなかったのだ。つまり、納得できるような頭の良さの定義が見つからなかった。私が求める要素を十分に説明してくれる視点が必要だった。

 

  • 曖昧な意味なのに、他人に「頭いいね、悪いね」と、人は簡単に言ってしまうこと
  • 頭が良くなる本を人は買ってしまいがちなこと

 

ここも十分に考えたいところだ。そして、「頭が良くなる本」の効果を見極めるために、この本では次の3点から分析がされる

 

  • 物事を知ることと、物事を行うことの違い
  • 「頭が良くなる本」が提供する知識がどのような種類のものか
  • なぜ人はそういう本のことが気になるのか

 

 

基本方針としては、

頭を良くしたいのなら、まずは頭がいいとはどういうことかを考えよう!ということ。

 

私はとても共感できる。

 

真の天才って、「頭良くなりたい!」って思ったことないんじゃない?

成功したり、楽しんでる人は「頭がいいかどうか」なんて些細なこと考えないんじゃ?

 

なんて、私は想像していた。そもそも人の目を気にしすぎることから生じる混乱、錯覚である、と言えるかもしれない。

 

 

 

 

 

 

ものごとを知るさいの2種類のあり方 「命題知と方法知」

 

 

 

物事を知ることと、物事を行うことの違いについて。

ギルバート・ライルはものごとを知るさいの2種類のあり方を整理した。

 

命題知 「内容を知る」ある事柄についての知識を記憶すること
方法知 「方法を知る」ある事柄をおこなう能力を身につけること

 

要点をまとめる。

知識あるけど、頭良く見えない人もいるし、知識ないのに、頭良く見える人もいる。

頭がいいということは、ある特定の分野に対する知識を得るということとは別。


命題知と方法知はイコールではないし、ある場面でその人が適切な方法知を持っているかどうかが、その人が頭がいい、と呼ばれるかどうかの別れ目と言える。

 「頭が良くなる本」を読んでも、脳内物質のはたらきはこれこれこうである、という命題知が得られるだけである。

 

 

え、この時点で人から褒められるような方法知って、知識だけじゃ身に付かないじゃん...?

 

そもそも人って頭良くなりたいのではなく、「頭いいね」と人に言われたいだけなのでは...?

 

とすると、人との関係の中で発揮される方法知が必要になる。そこで、社会という視点が必要になってくる。

 

 

 

 

 

 

 

社会学でいう「偶発性」

 

以下要約

命題知が全く役に立たない、というわけではない。例えば、暗記テストなんかにはもちろん効果的。

しかし、人と談笑しててジョークをいう時にはあまり重要ではない。つまり、他者とのコミュニケーションが絡んでくる場合、命題知はあまり役に立たない。

 

そこで「偶発性」という概念が重要になる。
社会は不確実なものであるから、偶発性にどう対処するのかという点が頭の良さの問題になる。2種類の偶発性に分けて考える。 

 

「単一の偶発性」暗記テストのような、自分のことだけに関するもの。


「二重の偶発性」他者との関係が関わる偶発性であり、他者とのコミュニケーションが必要になるもの。

 

自分の能力だけを考えれば良い、「単一の偶発性」の場合、命題知も役に立つかもしれない。

しかし、私たちが期待する頭がいいのイメージは、「二重の偶発性」に関わるものなのが問題だ。

 

頭いいね!と他者から褒められたいのが人間というもの。「二重の偶発性」の場合、相手がどう思うのかということも予測しながら行動しなければならない。ここでは、命題知があまり重要ではない。つまり、「頭が良くなる本」が役に立たない。

 

 

 

 

 

 

「頭がいいリテラシー」も人って足りない!!!

 

頭がいいという言葉の性質が見えた。自分ではなく他者が決定するものである、ということだ。

 

つまりは、人の間の関係の中で発生する概念であり、相対的なものなのだ。けれども、人はこの言葉を絶対視し、人を評価して使う。 定義が曖昧な言葉を絶対視しすぎて、思考停止になるのは不自由な姿勢だろう。それに、この言葉が人を傷つける悪口になる場合だってあるのだから。身近な概念なのだから余計に、「頭がいい」という概念にはもう少し慎重になるべきではないだろうか?

 

 

 

 

 

より自由に

 

自分が「頭が良くなりたい」と思う理由、内容をもっと考えておくべきだ。その理由、内容がはっきりした時に初めて、「頭が良くなる本」が果たして本当に役に立つかどうかが決まることになる。

 

頭が良くなるってどういうこと?

頭が良くなる本の本質は?

自分はどういう状態を目指したいのか?

 

こういったことを自分自身で考えられるようになることが、本当の自由につながるはずだ。冒頭の文を繰り返す。

 

頭がいいかどうか、勉強ができるかどうか、などの物言いには、わたし自身いい加減うんざりしている。そういった価値観に巻き込まれたときには、子供の頃からずっと違和感を感じていた。頭いいってなんだろ、と本質的な何かをずっとつかみたかった。今回改めて、「頭がいいかどうか」という比較軸そのものがどうでもよくなった。より自由になれた気がする🐳🐳

 

頭がいいとか悪いとか、他人から言われた過去の心ない一言が、心に残ってしまっている人もいるはず。「そんなことはどうでもいいんだよ、囚われなくていいんだよ」と伝えられれば、と私は思う。

 

関連して、真の教養とは何かについても考えたい。私は、教養=自分がわかること、と定義したい。こちらがおすすめ。

 

 

interaction.hatenadiary.jp

 

 

 

 

 

関連記事

interaction.hatenadiary.jp

interaction.hatenadiary.jp

interaction.hatenadiary.jp

 

 

 

 

追記

本ブログが誰かの役に立ったならば、私はうれしい。