好きをブチ抜く

「好き」をブチ抜く

本、映画、科学、哲学、心理、すごい人の考え方など。あらゆる情報を編集したい。

心はすべて数学である【本紹介】心の正体は数学なのか⁉

記事の内容

とても刺激的なタイトルの本を紹介したい。

 

津田一郎の『心はすべて数学である』という本だ。

 

 

タイトルのとおり、心と数学の関係を考察する。

 

数学と何か、心とは何か、この二つの問いを同時に考える。両方のテーマに興味がある人には、最高の本になるはずだ。

 

この記事では、本書から気になったところを何点かまとめてみたい。それでは、目次をどうぞ。

 

 

 

 

数学とは心だ

 

心はどこから来るのか?と著者は問いかける。

 

「抽象的で普遍的な心」から、個々の脳を通して表現されたものが個々の心だ、と著者は考える。つまり、普遍的な心の場のようなものが先にあり、その後たくさんの個人の心として私たちの心は現れる。

 

この指摘には共感させられる。なぜならば、最新の認知科学やコミュニケーション論、心の哲学などをみても、自己と他者の境界の自明さを崩壊させる知見が増えているからだ。そして、私たちの心の成立には、前提として他者の心が想定されているという意見がある。私の心が先か、他者の心が先か鶏と卵の関係に思えてしまう。しかし、「抽象としての心の場」が先にあるならば、上の対立は消えるはずだ。(しかし、それなら「抽象としての心の場」はどこから来る?)

 

そして、その「抽象的で普遍的な心」こそ、数学という学問体系そのものではないか、と著者は述べる。

 

この意見はとても大胆だ。たしかに、本書で挙げられているように、心、脳と数学は色々と本質的に繋がっているように見える。しかし、現在の数学的体系には、情緒的なものを捉え切れていないようにも感じてしまう。つまり、心はすべて数学であるという理屈には疑問が残る。

 

数学の本質とは感性である、情緒である、とも本書では触れられている。ということは、今後の数学のさらなる発展により、感性や情緒を数学は表現していくのだろうか。そうなると、私たちが常識的に思う「心」も、どんどん数学と親和的になっていくのだろうか。

 

ただし、本書が目指しているのは、普遍的な心、場としての心と数学の関係だ。心はすべて数学である、という時の「心」の定義には注意しておきたい。

 

著者は心と数学の関係を考えるために、不可能問題をヒントにしていく。

 

 

 

 

 

不可能問題

 

「できない」を数学は証明してきた。

 

 

・チューリングの停止問題

「あるプログラムに従って計算が行われているとき、それが有限時間で計算を終えて停止するか、永遠に計算が続いて答えが出ないかを一般的に決定する方法はない」

 

・ゲーデルの不完全性定理

「無矛盾な体系の中には証明も反証もできない命題が存在してしまう」

 

・カオスの計算

「真のカオス解は存在するが、それを計算することはできない」

 

不完全性定理は、「この命題は証明できない」などのような数学を対象にする言明を数学の対象にする。メタだ。そして、そのためにはメタ数学と数学との間に、翻訳関係、写像を作る必要がある。

 

著者は、こうした関係から心と脳の関係にアナロジーしていく。心と脳の命題をどう対応させるべきなのか、と。そして、心から脳へ対応させることをもっと研究するべきだ、という。

 

しかし、心脳問題の哲学的な議論を踏まえると、「心から脳への対応」と「脳から心への対応」はどう違うのだろうか?

 

分野、語彙が異なるという前提を崩せない分、必ずカテゴリーミステイクが潜んでしまう。やはり、著者の仮説である「普遍的な心の場」という概念の整理がまずは先に来るべきだと感じる。

 

 

 

 

脳の中の複雑系

 

カオスそのものは計算できないが、カオスが複雑な世界を計算してくれるかもしれない。

 

実際に、カオスが生まれているときに記憶しているという研究結果もある。

 

カオスそのものの中に、時間的な因果関係はない。しかし、カオスがネットワークを作ると、情報を保持することができる。川の流れそのものは保持されることに近い。

 

 

 

 

心は数式で書けるのか

 

意外なことに、「意識の式」は書けないだろう、と著者は言う。

 

意識とは書こうとしても書けないものなのだ、という。だから、作るプロセスを理解することで、その対象を理解することにする。

 

数学での無限と集合の議論にヒントがある。そして、実際に脳の記憶の機能は、数学での無限と集合の関係のように記述することができるらしい。

 

 

 

 

 

「概念」を守る

 

科学は、実証に重きを置きすぎる傾向がある。

 

実証の前に、新しいコンセプト・概念を持つことで科学も新しくなっていくはずだ。そして、数年でその概念を捨ててしまうのではなく、もっと何百年も残るような視点で、こうした概念を温めていくべきだという。

 

今の科学や、日常にある概念も、そうして3000年も生き残ってきたものたちなのだ。

 

 

 

 

まとめ

 

本書の最後の著者の言葉を引用したい。とても素敵な意見だと思う。それに、科学的にも大事な指摘も含まれる。

 

本書を通して私が心に描いてきたのは、実は「心は数学だ」ということなのです。「数学は心だ」というAならばBというテーゼを私が主張することで、読者の心にBならばAである、すなわち「心は数学だ」が浮かんでくれたなら、私の脳が他者である読者の方々の心を表現し得たということができるでしょう。

 

「私の脳が他者の心を表現する」ということの具体例を示している。イメージが湧くだろうか?個人的に、このイメージには共感できる。共感するとともに、重要な視点な気がしている。

 

本書を読んでみて感じたことは、著者がいう「心」とは何だろうか、ということだ。普遍的な心を想定しているが、それこそ数学であるという考え方なのだろう。しかし、本書のタイトルの「心はすべて数学である」という言葉からは、もっと広い「心」を指しているようにも感じてしまう。

 

「抽象的な心の場」と私たち個人の感情まみれの心。この関係の研究が必要そうだ。それこそ、クオリアはどう説明できるだろうか?

 

それには、やはり哲学の議論が必要だと思う。哲学で長年議論されてきた「心」に関する議論を、「数学的な心」で基礎付けられたら、と思うと楽しい。(しかし、さらにそれらの土台となんだろうか?「現実とは数学である」という主張も関連記事にて紹介している。)

 

「普遍的な心の場から個々の心が作り出される」という方針は重要だが、数学だけですべて等値できるかは分からない。同時に数学の発展の未来が楽しみでもある。ただし、「生命科学の視点」が必要な気もする。わたしたちは生命である。生命科学のほうから、数学を基礎づけることなんかも可能になるのかもしれない。とくに、心の起源に迫る進化心理学どの相性はどうだろうか。

 

「心は数学である」という概念が、100年後にどの程度熟成しているのか、とてもたのしみだ。

 

 

 

 

 

関連記事

 

とくに、現実とは数学である、という次の記事をおすすめしたい。

 

www.buchinuku.work

 

 

 

 

www.buchinuku.work

 

www.buchinuku.work

www.buchinuku.work

www.buchinuku.work