この記事の問いと内容
ついに新作が公開されたターミネーターシリーズ。あのターミネーター2の正式な続編になっている。
しかしこれは、3~ジェネシスまでの作品をなかったことにしてしまう。
それらの作品は、なかったことにされるほど出来が悪いのか?とくに、2の続編である「ターミネーター3」という作品は、ほんとうに駄作だろうか?
個人的には、ターミネータ-3という作品も、十分楽しめた。
ターミネーター3の魅力とはなんだろう?
今回の記事では、ターミネーター3の魅力をあらためて考えてみたい。公開されたばかりの新作ニューフェイトとの比較もしたいと思う。まだ見ていない方は、ネタバレ注意である。
悪いところと良いところ
まずは一般的に言われるターミネーター3の批評をまとめよう。
悪いとこ
・ジョンが不細工
・サラがでてこない
・どことなくB級感
・ラストに納得がいかない
・恐怖度が低い
いいとこ
・敵のターミネーターが女で怖い、不気味
・カーアクションなど、かなり気合が入っている
・ジョンのキャラ設定がリアル 救世主という重圧に押しつぶされた青年
・ターミネーターへのオマージュがあふれている
3への批判
最大の批判と言えば、あの美青年だったジョンはどこにいった!!??
というものだろう。
たしかに、3でのジョンはみすぼらしい。一部ではサル顔ともいわれてしまっている。
くたびれたおっさんみたいになってしまっている。見た目はかなり残念だろう。
監督は、なぜ容姿のずれが生じるようなキャストを選んだのだろうか?まずは、ここから考えてみたい。
ジョンの過酷な運命
ジョンはつねに、ターミネーターに襲われる恐怖と闘いながら、日常を過ごさなければいけない。これがどんなに過酷な運命か想像できるだろうか?
2での体験から、ジョンはターミネーターの恐ろしさを知っている。いつまた、自分の目の前に現れるかわからない。さらに、味方は誰もいないのだ。ターミネーターのことを話しても、当然信じてもらえない。
もちろん、定職にもつけず、人並みに恋愛することすら難しいだろう。リア充という状態とは程遠い生活を送らざる得ないのだ。
未来で人間軍のリーダーになるという英雄像とは、程遠い生活である。
2でのイケメンなジョンこそ、未来での可能性にみちた姿を暗示しているように感じる。一方、3でのジョンは、彼の現実での過酷な生活を表現できる人物である必要がある。だからこそ、「くたびれた感」がぴったりなのだ。
運命に翻弄された一人の人間として、非常にリアリティを感じる。ありふれたヒーロー像ではないところだ。この一人の人間としてのジョンをもっとも深ぼった作品こそ、ターミネーター3ではないか?だから、個人的には3は好きだ。
ニューフェイトの衝撃!!
さて、公開されたばかりのニューフェイトを比較したい点がある。
重大なネタバレが含まれるので、見ていない方はここでストップを。
ニューフェイトは、ターミネーター2の正式な続編とのことで、あのサラコナーが登場する。それでは、ジョンはどうなったのだろう?
なんと映画開始早々、サラの回想のなかで、ジョンは殺されてしまうのだ。敵のターミネーターは何体か送り込まれていたようで、そのうちのT800によって、ジョンは撃ち殺されてしまう。
このシーンには衝撃をうけた...
ターミネーター2のジョンコナーの印象が大きいからだ。やっと困難をのりこえ、生き残ったのにあっさりと殺されてしまう。
だから、ニューフェイトのなかで、ジョンはなかったことにされてしまうのだ。このストーリーはとても残酷なものだとおもう。ニューフェイトでは、「ジョンコナー」というシンボルから、ターミネータ―シリーズを切り離した。新たな女性ヒロインの誕生を描いている。
あまりにも、ジョンが報われなさすぎるのではないか...
運命から逃れられるか?
ターミネーター3とニューフェイトの共通点もある。
それは、「マシーンVS人間の戦争」が避けられないということだ。まさに運命だ。
3のラストでは、ジョンは運命に立ち向かう覚悟を決める。腐った生活をしていた男が、ついに決心するのだ。
一方、ニューフェイトではジョンにかわり、別の人物が抵抗軍のリーダーになる。ジョンという人物の視点でみれば、彼は自分の運命から逃れることができて幸せだ、という見方もできるか。解放という自由だ。
しかし、代わりとなる人物が生じてしまう。これでは、無限ループではないか...
大きな視点で見れば、運命からは逃れられないということになる。
ターミネーターというシリーズでこれをしてしまうのは、希望がないように思える。
しかしやはり、制作側の都合が何よりも優先されるのだろう。物語の運命は、メタ的な存在によって規定されるのだ。
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