哲学者に足らないこと
科学者の武田邦彦氏、私は彼の科学者としての冷静な姿勢がとても好きです。科学と哲学に対する考察が為になりました。まとめます。
・哲学はどんなところが弱いのか
・科学的であるにはどうすればいいのか
この論点だけでも、持ち帰ってみてください。
武田氏の意見まとめ
今のところ〜だと思われる、というものが科学。
明日にも、科学の常識は変わる可能性がある。
科学者は、宙に浮いている。常に不安定にいる。これは、断定的、思い込みを排除する姿勢だ。
一方、哲学、文学は基盤ありき。なぜ宙ぶらりんにしておかないのか、自分の頭の中の前提のチェックをしないのか。
彼の本もどんどん読みたいですね。
科学と哲学の線引きは難しい
哲学者は意見を言うが、その意見の前提が怪しい。前提における思い込みが強いのではないか?
一方、科学者は思い込みを持たないようにする。それを、宙に浮いている、安定していないと表現している。
これが武田氏の意見だ。
哲学者、文学は、思い込みありきなのだろう。これは、言い換えると、「私」ありきだ、ということだ。これは、哲学というもののある性質を表す。その人の思い、動機、叫び、意見が詰まっているのが哲学なのだ。もちろん、それらを退けた論理学、科学に近いものもある。しかし、基本的には哲学は、その人が考えずには生きられなかったという叫びなのである。
自分の哲学を否定された哲学者は、自分自信を否定されたような気になる。一方、科学者は自分の意見を否定されたところで、否定されたものはあくまでも自分ではない。
「だからこそ、哲学はいい。」「だからこそ、哲学はダメだ。」両方のツッコミができる。これは、単なる立場設定の問題だ。科学者の立場として、武田氏は上のような意見を言ったのだろう。
しかし、自分の思いを科学に込めようとする科学者だっている。依然として、科学と哲学の差は、はっきりしない。人間が、完全に思い込みをなくすことは不可能だ。これが科学と哲学の境界を曖昧にさせてしまうのだろう。
結局は、普通の科学者としては、自分をなくし思い込みをなくすべきだ。ただやはり、科学でも哲学でも偉大な発見というのは、その人個人の執念によることも多い。
じゃあ、思い込みはダメなんて簡単に言えなくない?
その通りだ。「思い込み」と、単に言葉で簡単に言うが、その言葉の中身をよく考えていくべきだ。
どんな思い込み?
何に対する思い込み?
どの程度の思い込み?
これらを明確に言葉にすることが難しいことが、今日の科学と哲学の混乱の底にはある気がする。
科学哲学についてはこちらでも考えています。
本ブログが誰かの自由につながったのなら、うれしい。