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史上最強の哲学入門 飲茶本をあらためて読む【まとめ・感想】

記事の内容

この記事では、この本を紹介します!!

 

 史上最強の哲学入門

 

 

哲学の入門書として、とても有名な一冊です。

何も知らない人が哲学を楽しむために、やはり最適な一冊でしょう。

 

とにかく説明がわかりやすい。

全体の流れ、構成が秀逸です。

おかげで、哲学の面白さの核心に触れられます。

 

私も高校生の頃に読み、その面白さに感動しました。

そんな本書を久々に読み直したので、記事にまとめておきたいと思います。

 

 

 

 

真理を巡って

 

人の経験の受け取り方には、人間としての特有の形式がある。それは、生まれつき持っている脳の癖のことだ。

 

人にとっての真理とは、人間の形式に変換された後の世界での真理である。

 

真理とは人間によって規定されるものである。

 

よって、人の認知の外側の世界、物そのものには到達できない。

 

続いて、ヘーゲルは真理への到達の仕方を提唱した。弁証法である。異なる意見をぶつけ合い、それを乗り越えより良い意見を生んでいく。この運動こそ、真理に到達する方法である。

 

いつ到達できるのか分からない真理。そんなものより、いま到達できる私に取っての真理が大事だ、とキルケゴールは言う。個人にとっての実存的な真理を重視した。

 

サルトルは、ヘーゲルの弁証法を個人で実践する道を示した。歴史へ参加せよ、と。目指すべき唯一の歴史がある、と。僕たち自身の手で、真理への歴史の到達を動かそうじゃないか。

 

究極の真理への実践に待ったをかけたのがレヴィストロース。西洋の文化が、歴史の先端であり真理に近い、という見方は偏見に過ぎないことを喝破した。

 

理性の限界を認める動きが進む。

 

真理探究は置いておいて、役に立つかどうかという点にのみ焦点を当てよう。こんなプラグマティズムも生まれた。

 

デリダは、話し手中心主義を批判した。本の作者が本当に言いたかったことなんて絶対に確かめられない。よって、読み手の解釈の方を大事にしよう、と。意図とは、決して到達できない真理なのだ。そんな真理を巡って争うのは不毛。

 

レヴィナスは、「他者」に注目した。ある意見や概念の外側すべてを指す概念である。私たちがある真理の正しさを主張しても、必ずそれを否定する他者が存在する。しかし、こうした他者のおかげで、無限に新しいアイデアを生み出していくことができる。否定とは、すなわち、創造の可能性でもあるのだ。だから、私たち人類はいつまで経っても、完結という退屈にハマらずに済んでいる。

 

真理とは探究の原動力なのである、と著者はのべる。

 

(感想)

原動力か。結局、脳の癖の話である。認知科学や進化心理学に帰着する目線だろうか。真理というものを、哲学の外に置いてみる。これはこれで、アプローチとしては面白いと思う。それこそ、真理の扱いにも、さまざまな選択肢があるはず。いま、有力なのは、広い意味での心理学だろうか。

 

 

 

 

現代での真理探究の是非

 

・たった一つの真理を巡って争う闘争は、もうできない。なぜなら、大規模な戦争に繋がってしまうから。大虐殺できる武器を手にした人類は、もう気軽に戦えない。人類が滅亡してしまう。

 

 

・科学の進歩により、探究、理性の限界があらわになった。

 

 

 

 

国家の真理とマルクス

 

資本主義は、資本家と労働者の格差広げるだけ。だから、いずれ、労働者側からの反逆的な革命が起きる。このように、資本主義は必ず崩壊するシステムである、とマルクスは分析した。

 

彼は、資本主義の後の世界も提案した。

それが共産主義。

富をみんなで平等に分配する社会。しかし、歴史上、共産主義国家は失敗。

 

現代は?

 

新自由主義が、現代の国家の方針。

国家は出来るだけ介入せず、市場に任せよう。

だから、労働者の自己責任の時代。国家は何もしてくれない。

 

 

 

 

神と真理

 

権威持つに至るほど、普及したキリスト教。

しかし、今度は誰の教義解釈が正しいのか、揉めることになる。

 

この討論に勝利し、キリスト教の教義を統一したのがアウグスティヌスである。

 

「人間は自力では救われない。神の力が必要である」

 

アウグスティヌスは、人間の弱さを認めていた。懺悔的教義である。

 

続いて問題になったのが、キリスト教の神学 VS アリストテレスの哲学という構造だ。両者は矛盾する。

 

例えば、

 

全能の神は、「重すぎて絶対に持ち上げられない石」を作ることはできるか?

 

トマス・アクィナスがここで活躍。

 

理性では説明できない領域を、理性によって導く。その領域こそ、神学の出番なのだよ、と。こうして、信仰の世界の領域を守った。

 

そして、時はとび、1800年代にニーチェが登場する。

 

「神は死んだ」

「宗教や道徳なんて弱者のルサンチマン」

 

では、神が死んだ後の世界でどう生きればいいのか。

 

力への意志。

これこそが、人の素直な欲求であり、人生の本質である。

 

 

 

 

 

存在の真理

 

17世紀、ついにニュートンが登場する。

地上でも天空でも、存在は同じ法則で動く。

 

バークリーは、

「存在するとは知覚されることである」

と、一見常識に合わない説を展開した。

存在という概念は、まず知覚ありきだろう、と。

 

それでは、知覚できる生命がすべて消え去ったら、この物理世界も無くなるのか?

 

 

こうした主観に注目したのがフッサールの現象学だ。脳による主観の外側の世界のことは、どうやったって分からない。だから、なぜある理論が脳の内側に生じたのか?という角度で、起源を問うべきだ。

 

あらゆる確信はすべて、主観的な意識体験から始まる。この意識体験という根っこは、確かにある。ゆえに、現象学は、意識の上に現に起きていることは何か、から全ての常識や学問を再構成しようとする。意識体験をすべての基礎づけに置くのだ。

 

そんなフッサールの弟子にあたるハイデガー。彼は、存在のそもそもを問うた。

 

存在という概念を使っているのは人間だ。だから、まずは人間自身について知ろう。存在を問いかける人間とは何か?を問おう。しかし、肝心の答えがハイデガーからは記されていない。彼の著書は未完なのだ。

 

ソシュールは、言葉を区別のシステムだとみた。そして、ある価値観に基づき、言葉によって、世界を区別する。これこそ、存在の根っこである、とみた。

 

価値観の表現としての言葉。そして、言葉は何かと何かを区別するためのもの。

 

存在とは、存在に価値を見出す存在がいて、初めて存在する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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