記事の内容
今回は、戸田山和久氏の「哲学入門」という本を紹介したい。
他の哲学入門書とは、かなり異なる内容になっている。
なぜならば、科学の成果、つまり唯物論者の立場から書かれているからだ。そのため、他の哲学入門で扱うようなソクラテスやニーチェなどは出てこない。より現代的で、科学的な視点から哲学する本になっている。とても面白い。
個人的に、何度も読み返したい一冊である。
気になった方はぜひ、目次を見てみてほしい。
哲学入門 戸田山和久
神は死んだ(ニーチェもね)。いまや世界のありようを解明するのは科学である。万物は詰まるところ素粒子のダンスにすぎないのだ。こうした世界観のもとでは、哲学が得意げに語ってきたものたちが、そもそも本当に存在するのかさえ疑わしい。「ことばの意味とは何か」「私たちは自由意志をもつのか」「道徳は可能か」、そして「人生に意味はあるのか」…すべての哲学問題は、根底から問い直される必要がある!科学が明らかにした世界像のただなかで人間とは何かを探究する、最もラディカルにして普遍的な入門書。他に類を見ない傑作です。
著者自身によるこの記事も、ためになると思う。哲学の役割について納得できるはずだ。
誰かによってつくられた「生存権」とか「人権」といった概念が、それに価値を見出した人々によってリレーされ、あなたの手許に届いたからだ。概念はしばしば所与なので、自然なモノだと思いがちだが、じつは設計者のいる人工物だ。
その概念づくりの作業が行われなかったら、リレーがどこかで途絶えていたら、あなたの生活はいまほど幸せではなかったはずだし、じっさい、まだそれらの概念の恩恵をこうむることができない人々が世界のあちこちにいる。
人間にとっての「概念工学」ということの欠かせなさ。実感できると思う。
この本の狙い
「ありそうでなさそうでやっぱりあるもの」を哲学はずっと扱ってきた。
科学の成果を土台にして、哲学をやる。科学的世界像の中で、人間とは何かを考えていく。科学によって、この世界のことがわかってきた。そこでは、つきつめれば、世界とは物理的なもの同士の相互作用に他ならない。唯物論、物理主義と呼ばれている。
科学をあたりまえなこととしてい私たちは、ほとんど唯物論者なのである。
ここで、とんでもない不思議が現れる。
たとえば、「意味」というものはこの物理世界のどこに存在するのだろうか?水分子が存在するのと同じように、「意味」も存在しているのか?いや、そうは思えない。
「価値」や「目的」など、このような在るのかないのか分からないものはたくさんある。しかし、我々人間はそれらなしでは生きられない。そうしたものを、本書で著者は「存在もどき」と呼んでいる。
著者は唯物論である。だから、「存在もどき」たちをモノだけの世界観に描きこむ、ことが目標になる。
そこで著者は、この物理世界のなかで、「存在もどき」たちはだんだんに沸いてきた、とみなす。つまり、存在もどきがそうでないものから現れてくるプロセスを明らかにし、そのシナリオを作ろうとする。発生的観点、と呼んでいる。
こうしたアプローチで、存在もどきたちにせまるというのが本書の内容である。
こうした哲学入門書の珍しさ
いろいろな哲学に関する本を読んできたが、本書はとても独特だとおもう。
なぜならば、やはり「科学」をしっかりと土台にしているからだ。科学を土台にするのだから自然と、私たちの心の不思議のようなものを、科学的な世界観で説明することになる。しかし、このアプローチは、哲学的にはかなり複雑な議論が必要になる。だから、入門書のようなものでは、扱いづらいテーマなのかとおもう。
しかし、もっとも大事な試みではないだろうか?
現代の科学の成果をふまえるからこそ、そこから漏れ出るように見えてしまうものたちが不思議になる。そして、それは私たち人間の「生きる意味」とも関連するような、とても大事な観点だ。宗教も弱まり、様々な価値観に私たちは翻弄されている。そんな私たちにとって、欠かせない思考プロセスではないだろうか?
この本の価値は計り知れないと思う。
とても、実践的な、日用的な、哲学入門書だと思う。目的が壮大な分、その議論はかなり難しい。丁寧に追っていく必要がある。
分析哲学の限界を批評し、進化論的なアプローチがなされていることにも注目である。
以下では、本書の一部をまとめてみたい。
1 意味
意味を理解しているとはどういうことか?
ただの記号操作には、意味は無いように見える。
サールの「中国語の部屋」を例に話が進む。そこで、会話だけではなく、「行為」が大事なのではないか、となる。
続いて、「主体」が問題になる。生物と違い、ロボットは、主題的な問題意識を持つことはない。
心をもつもたないは、機能ではなく、その機能がなんのためにあるか、つまり機能の目的の存在様式の問題なのである。
意味と目的は、関係が深い。
意味の理解は、生き物が何かする場面で問われるべき。
認知科学における計算主義は、人間の認知の本質も、記号操作的、つまりコンピュータと同様だ、とする。
そうすると、意味は消えてしまう。
そこで、表象が持つであろう意味に注目する。さらに、表象が何かを意味するということを自然現象として考えていきたい。
・解釈主義
解釈すること自体が意味を作る。
自然界そのものには「意味する」ということは起きていない。
しかし、解釈者の存在なしに、意味を自然の中に見つけたい。ここで、ミリカンの目的論的意味論が登場する。原始的で単純な、生物の生存に関わるようなものの表象を、発生的観点から説明してくれる。
ここでは、その「本来の機能」が重要視される。今度は、「機能」というものの自然化へとすすむ。
2 機能
意味、機能、目的の共通点。
「いまそこにないもの」にかかわるということ。生物は、「いまそこにないもの」をどうにかして生きている。
ミリカンの定義は、歴史的経緯からなされる。自然の中で湧いてでた「機能」の定義を新たにし直している。
6 自由
モノだけの世界の中で自由は可能なのか?
認知科学や脳科学により、我々の心も一種の計算機のようなものだとわかってきた。つまや、「私がしたこと」に見えるものは、「私に起こったこと」になってしまう。
自由意志は、以下のように拡大してしまう。
・行為者因果
原因はどこまでもさかのぼれるので、個人の外に原因があることになる。だから、行為の究極原因を個人の中に置いておかなければならないとする。
・ダネット
哲学的に分析するのではなく、現に我々が持っている自由の程度を見極める。哲学的議論自体が深まることが、かえって現実を無視することになっている。行為者因果などがそう。
・他行為可能性
違うようにもできること。
・自己コントロール
単なる偶然によって生じた行為は、自由な行為と言えない。
コントロールということの誤解から、自由意志についての混乱が生じている。
・コントロールA
反映される、影響を与える
・コントロールB
目的を持つエージェントが、ほかのエージェントを使って目的を達成しようとする
コントロールBの意味でなら、決定論は自己コントロールの障害にはならない。自然法則に従うことは、何かにコントロールされることではない。
環境はエージェントではない。欲求も目的も持たない。
われわれの内的メカニズムもエージェントではない。わたしの欲求や信念を、内的メカニズムに帰属させようとすれば、カテゴリーミステイクになる。つまり、自然法則や環境を擬人化した結果生じる誤解こそ、決定論なのである。
理由によって行為することも、物理的な因果と反しない。自然界の因果関係を自分の目的に合うようにうまく組み合わせるのが、生物のデザインである。物理的な世界を意味でフィルターにかけることが、生き物に自己コントロールを与えた。
ダネットの議論の面白いところは、われわれの自由は、決定論的な物理システムを前提にしているからこそ成り立つ、という点だ。自由の意味を形而上学的に拡大するのではなく、進化の過程から設定するところも、納得できる。
まとめ
著者の試みがどこまで成功しているののかの判断は、素人にはできない。著者がいうように、今後の科学の成果により、変わっていくものでもあると思う。
この本の続編をぜひ見てみたい。
さらに気になる方は、ぜひ本書へと進んでみてほいい。
また、本書への批判も含んだ感想は、次のような専門家の記事がある。
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