科学と宗教は両立しうるか?
科学が広まれば宗教なんていらない、という人が多いだろう。
日本では、宗教なんていらないと思っている人は多い。しかし、その割には、歴史ある宗教からカルト教まで跋扈している。
今回は、鋭き科学者である武田邦彦さんの知恵を借りてみる。
科学と宗教、それらはいったい人間にとってなんなのか考えるヒントになるはずだ。
【武田邦彦】宗教と科学の共存は可能か?【武田教授 youtube】
本記事のイシュー
人間は、科学と宗教に対するアプローチ方法が違う。だから、科学と宗教は両立しうる。
武田邦彦氏の主張
・科学の欠点
科学には欠点がある。
私たちが得ているデータは、絶対に間違っているのだから。正しいとか、考えているのは大脳。それは当てにならない。
そもそも大脳による認識は、とても不完全。
大脳は、赤ちゃんのときは真っ白。
場所によって信じる神が違うのはおかしい。こんなことが起こるのは、神を大脳で信じているから。だから、生まれ育った場所に影響を受ける。私たちが正しいと考えることは、いかにいい加減か分かる。
武田氏が、大学の授業の最後に生徒たちに贈る言葉は面白い。
「私が皆さんに今まで教えてきた物理は、全部間違っている。しかし、私たちは、ニュートンの肩の上に乗らなくてはいけない。とりあえず、現在の学問体系の上に乗せました。今までより、遠くを見ることができるでしょう。しかし、その景色もみんな間違っている。なぜなら、ニュートンも間違っている。今後、ニュートン力学も、他のこともたくさん否定されていく。」
・科学と宗教とでは、身体的に判断する部分が違う
大脳だけではない判断機構もある。
アフォーダンスなどの身体性やDNA、ミーム、これらも判断機構だ。
それらは、宗教が説いてきたような「他人を愛しなさい」「自己を捨てなさい」というものを正しいとする。
一方、大脳は、自分が大切、自分の理屈が大切だ、とする。論理主義でもあり、利己主義でもある。勝てばいいと大脳は考え、戦争や差別の根源とも言える。
これらは、両立し、調和していくものだ。
科学を批評
科学を批評する営みは、理論的には主に科学哲学という分野で研究されている。科学哲学の入門書を読めば、科学の柱である、演繹法、帰納法の不完全さがすぐにわかるはずだ。次の記事が詳しい。
武田氏も言うように、私たちが得ているデータも、不完全だ。だから、そのデータをもとに考える大脳が導き出す科学も不完全になる。
いつ今の科学理論がひっくり返されるかわからないのだ。
だからこそ、科学は絶対に正しいなどど考えてはいけない。ただ、何の根拠もなしに科学を信じることは、盲信である。これでは、昔の人々が神を信仰していたのと変わらない。
科学では説明ができない領域が存在する
科学が世界を説明できるようになればなるほど、世界はシンプルな公理と推論規則から導出される定理によって記述できるようになっていきます。
しかし、
「何で E=mc**2 で、E=mc**3 じゃないの」という「端的な事実」=「前提を欠いた偶発性」をめぐる問題が浮上する。
科学が世界を説明できるようになればなるほど、実はその説明自体によっては説明されない「端的な前提」が可視的になってしまう
原理的に、論理的思考では説明できない領域が存在する。
この理屈が分かっただろうか?
科学と宗教とでは、身体的に判断する部分が違う
科学と宗教が両立しうるという意見には賛成だ。
しかし、その根拠として、身体の判断する部分が違うから、というのは荒すぎる気がする。(武田氏は、あくまでも比喩的に言っているのかもしれないが)
「大脳だけで考える」とは簡単には言えない。人は論理的に考えているように見える時でも、身体を使って合理的に判断している。つまり、判断機構をそんなに明確には分けられないはずだ。
脳と身体との関係は深い。脳科学、認知科学でも近年注目されてきている。
科学的な判断、宗教的な判断、これらを分けるポイントとして、人間の身体性、文化的な歴史、生物としてのDNA、これらポイントを持ち出しているのは面白い。これらを総合的に研究するのは、文化人類学などだろうか。
けれど、やはり、科学的な判断と宗教的な信仰心を担う場所を区別できるのだろうか。
そもそも、
「科学的に判断する」とはどんなシステムなのか。
「信仰心を持つ」とはどんなシステムなのか。
これらを明確に定義できる学問や理屈は、そうそうはないだろう。
それこそ、心理学の言葉で記述しようとしても、それはあくまでも限定的な定義になっていしまうはずだ。ここにも、科学の限界、限定性が潜む。
きちんとした主張をするには、まだまだ難しく深いテーマだと思う。
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この本も気になります。
追記
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