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史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち【なぜこんなにも分かりやすいのか】仏教哲学入門ならこの一冊

記事の内容

 

この記事では、

 

史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち

 

Amazon.co.jp: 史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち (河出文庫) 電子書籍: 飲茶: Kindleストア

 

という本を紹介したい。

 

分かりやすいことでとても有名な飲茶先生の一冊。義務教育で導入してほしいレベルでおすすめな一冊である。

 

とくに本書がすごいところは、仏教についての説明が秀逸なところ。ふつうの紹介本では味わえない深さを楽しめる。

 

この記事では、本書から仏教のエッセンスをまとめたい。青文字部分は私の感想である。

 

 

 

 

 

東洋哲学はピラミッドである

 

ゴールを目指すのではなく、ゴールしたところから始まるのが東洋流。

 

真理を目指して、階段を登るように積み重ねて行く西洋哲学や学問とは全く違う。東洋哲学では、真理を悟った者の言葉を、弟子たちがさまざまに解釈して発展していく。

 

西洋哲学の一部にも、似たような傾向がある気がする。誰々はああ言っていた、と。学問と哲学、という分け方の方がいいかも。

 

 

 

 

ヤージュニャヴァルキヤ 梵我一如というウパニシャッド哲学

 

 

認識するものを認識できない

 

どうやって認識するものを認識できるであろうか?

できません。

 

私が存在するための条件は?

 

意識現象があること。意識現象をさらに言い換えると、認識することそのもの、と言える。認識するものを認識できたと仮定すると、無限遡行に陥り、いつまでも完結しない。よって、仮定は間違い。

 

とても論理的。紀元前600年頃にこの叡智に辿り着いているのは凄すぎる。

 

 

 

 

私とは、否定形でしか表現できない

 

「私」とは〇〇ではない。

否定形でしか表現できない。

 

「私は、〇〇です」

 

この文の〇〇には、認識対象となったものしか入らない。ゆえに、「私」そのものは代入できないのだ。

 

うーん、とても言語哲学的。分析的であり、説得力が高い。

 

しかし、私たちの日常の感覚は、まったく逆だろう。このズレに、私たちの不幸の原因があるという。

 

 

 

「私」の原理について勘違いしているから、不幸になる

 

どんなに悲惨な映画でも、観客を破壊することはできない。

 

私そのものは、まったく影響されない。害されることもない。嫌な感じを認識することはありうる。しかし、私そのものはただの観客である。

 

こうした思想は、身分制の無意味さを示すものだった。だから、空前の出家ブームにつながる。そのうちの1人があの釈迦である。

 

 

 

 

釈迦 無我

 

 

苦行

 

私は決して害されない。

 

この哲学は、理屈のままでは意味がない。体感しなければ、日常ではまったく意味がない。ならば、体感できていることをどうやって示すか?

 

苦行にどこまで耐えられるのか、が目に見える指標になる。その結果、苦行ゲームが流行する。だから、釈迦も苦行を実践した。しかし、彼は苦行が意味ないことに気づく。

 

 

 

中道

 

いやいや、「中道」とはそういう話ではない。「中道」とは、「『悟り』と『苦行(極端な状態)』には何の因果関係もない。いや、それどころかむしろ障害になりうる」という彼の秀逸な洞察なのである。

 

当時の世間は、ただの苦行自慢大会になっていた。身体と私を同化させてしまっている。自己の誤った同化を止めるというウパニシャッド哲学の本質からズレている。だから、釈迦は中道を示した。

 

 

 

仏教の教え

 

四諦

 

人生は苦しみだらけだけど、その苦しみには執着という原因があって、それを無くせば苦しみを消すことができる。その境地に至るための方法がある。

 

 

 

無我

 

大衆は本質を誤解する。

 

私を対象化し同化するのを止める、というのが本来のウパニシャッド哲学の教え。しかし、大衆は「私」を概念化してしまった。

 

だから、釈迦は、間違った世間の認識を正すために、無我を強調する必要があった。

 

ウパニシャッド哲学を否定したのではなく、ウパニシャッド哲学に回帰したということに注意。

 

 

 

 

 

龍樹 すべては空である

 

 

分裂

釈迦の死後、教義解釈をめぐって、仏教は大きく二つに分裂してしまう。大衆部と上座部だ。

 

大衆部は呼び名が変わり、大乗仏教となる。そこに現れた天才こそ、龍樹だ。

 

 

 

般若心経 空 無分別知

 

龍樹の哲学が最も色濃く現れているのが般若心経。龍樹が書いたわけではないことに注意。彼は、縁起の思想を掘り下げ、空の哲学として完成させた。

 

空とは、物質にも出来事にも実体はない、ということ。すべては、相互作用の結果、起こっている出来事に過ぎない。有るとも言えるし、無いとも言える。有る・無いを当てはめられるものは実は何もない。有る・無いを包摂する上位概念が空である。そして、この世の全ては、空である。

 

空を説明するために、般若心経は全てを否定する。

 

「知ることも無く、得るものも無い。  もともと得るということが無い」

 

 

こうして、分別知を超えていく。

 

分別知とは、言葉や概念による思考のことだ。しかし、般若心経、そして仏教の核心は、分別知によってはたどり着けない。もう一つの知の在り方を無分別知という。これは、分別をやめた領域である。言葉を覚える前の赤ん坊のころは、誰でもできていたはずだ。

 

この無分別知にたどり着くために、般若心経はすべてを否定しまくったのだ。

 

しかし、最後の関門が立ち塞がる。

 

私と他者という分別だ。

 

すべてを否定しても、否定している私は残り続けてしまう。この最後の分別を破壊することこそ、仏教の、般若心経の目的だ。

 

そのために、般若心経は、最後の最後に、「呪文」を用いる。呪文そのものに意味はない。

 

自我の崩壊、自己の死。

 

悟りへと、あと一歩を踏み出す勇気。たんに後押ししてくれるもの。勢いをつけてくれるもの。それだけだ。それだけだからこそ、いい。

 

「幸あれ!(ソワカ)」  

 

仏教の奥義書「般若経」の核心である「般若心経」、その「般若心経」の核心である真言のさらなる核心。それがこの言葉だ。もし誰かに「仏教の真髄とは何か」と問われたら、この言葉を返す以外にないだろう。  ソワカ。この言葉には本当に意味がない。それは単に「祝福」の意を表す言葉であり、感嘆の叫びである。だから、訳したくても訳しようがない。

 

よって、般若心経をまとめるとこうなる。

 

「物事が『空(関係性の中で成り立っているだけの実体のないもの)』であることを踏まえつつ、無分別(智慧)の行を実践して真言を唱えながら、えいやと悟りの境地にいたりましょう」

 

 

般若心経の核心をついた、とても分かりやすい説明だった。やはり、仏教書を何冊も読む前に、本書から始めるのがいいと思う。無分別知に至る最後の関門が「私」。たしかに、この壁はとても強力である。その壁を乗り越えるところまで、般若心経では計算されている。仏教の知恵に恐れいった。凄まじい。

 

科学という視点からもう少し考えてみよう。科学は分別知のみ扱える。無分別知と分別値のグレーゾーンに挑む科学者もあるだろう。しかし、どこまで行っても、科学は分別知に留まるのではないか。そもそも、グレーゾーンがあるという仮定から間違っているかもしれない。分別知の領域を分析する営みを私たちは科学と呼ぶのだろうか。科学哲学や言語哲学と接続させ、もっと考察したいところだ。

 

 

 

 

 

 

 

ウパニシャッド哲学を背景としインドで生まれた仏教。中国に伝わり、老荘思想と交わる。その結果生まれたのが禅である。そして、日本に伝わり、禅は熟成される。

 

栄西、道元という2人が日本の禅の代表である。

 

 

 

栄西

 

・どのような問題も、思考によってのみ解決可能である

・思考が私そのものである。

 

これは、思い込みである。

 

あらゆる手段を使って、この思い込みを破壊しようとする。その手段の一つが公安というなぞなぞだ。論理的に矛盾する問いを考え続ける。その結果、無分別知の存在に気づく。

 

 

 

道元

 

考えても考えても答えの出ない問いに対して、ごちゃごちゃ言わずにとにかく座れ、と構える。

 

士官打坐だ。

 

ただ座って、自分の脳に浮かぶ思考を観察する。

 

思考を止めたければ、「思考よ止まれ」と思考するのではなく、いま自分の身に起きている思考や感覚を「問題視」せずにただ眺めてスルーし、思考を生み出す元となっている「考えるべき問題」を減らしていく。そうして次の思考が生み出される「きっかけ」を減らしていくことがポイントである。

 

その先に、ある体験が訪れる。

 

「汝、それなり。」

 

悟りとは、思考や言葉によって表現できるものではない。「それ」と指し示すことしかできない。

 

示すことしかできない。ウィトゲンシュタインぽいね。

 

 

 

悟りを超えて 十牛図

禅の十牛図は、悟った後まで語ろうとしているところが革命的。

 

悟ったところで、ふつうの人。何も変わらない。起こるままに任せる。

 

「別に何も変わらなかったよ。ただ『茶』を一杯所望しただけさ。だってお茶を『飲』んで目を覚まし、いまを味わって生きる、それ以外ほかに何かすることがあるだろうか」  本書の著者名は、この禅話に由来する。

 

素敵なエピソードすぎる。

 

 

 

 

仏教を超えて

本書が素晴らしいのは、現代における仏教の限界にも触れていること。インターネットによって、仏教は知識化されてしまった。そして、仏教の教えが実践的にどこまで有効なのかにも、問いは残る。

 

いま生きている私たちならば、仏教を超えたさらなる思想や実践を生み出すことができる。本書の最後はこうして締めくくられる。

 

私も著者のこの思想には共感できる。テクノロジーによる常識の破壊が加速している。たとえば、少し前までAIと自然に会話することは難題だった。しかし、2023年現在、LLMという技術が浸透し、AIと自然な会話ができている。他にも、さまざまなテクノロジーにより、新しい認識が得られている。こうした気づきは、私たち人間自身について問い直すことを促す。そのとき、仏教哲学との邂逅が起こるだろう。ここで生まれる新しい何かにワクワクが止まらない。

 

いやしかし、そもそも現状の科学と仏教の対話をもっと一本化する必要があるだろうか。こうした対話そのものは、すでにたくさんあると思う。しかし、まだまだ世間の注目度は低いだろうか。さらに社会の低迷が進んだ時、仏教と科学の融合を筋道化する現代の龍樹が現れるかも知れない。

 

知や心の機能の側面の科学は進んでいる。今後は、もっと知や心の「在り方そのもの」の方へ科学は進むだろう。なんとなくの予想である。

 

 

 

 

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