論理哲学論考はどんな人向き?
・思考と言語の関係
・言語と世界の関係
・言語の限界
・哲学的な問いに解答はあるの?
・論理学の哲学
・「私」と世界の関係
これらテーマが気になる人にぜひ読んで欲しいのが、ウィトゲンシュタインの論理哲学論考だ。
「語りえないことについては、沈黙しなければならない」
この言葉だけは知っている人も多いかもしれない。
今回の記事では、論理哲学論考入門のためにオススメな本の内容をまとめながら、論考の魅力に迫りたい。
- 論理哲学論考はどんな人向き?
- ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考 古田徹也
- 論理哲学論考の目的と構成
- そもそも、語りうることと、語りえないことの区別ってつけられるの??
- 論考の流れ
- 投げ捨てるべき梯子としての論考
- 野矢茂樹 論理哲学論考を読む
- まとめ
- 関連記事
ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考 古田徹也
今回紹介する本がこれ。
とても読みやすい。論考とはどんな目的を持つ書物なのか、実感しながら読むことができる。それでは、この本をベースに論考の核心をまとめていきたい。
この本を読んだら、原著にチャレンジしてみるのがいいだろう。
論理哲学論考の目的と構成
哲学の問題を解決するために、ほとんどの哲学の問題は擬似問題にすぎないことを示す。
方法は、言語の限界を明らかにすることだ。
それによって、哲学の問題を一挙に解決しようとするのが論考の目的だ。
・なぜ世界は存在するのか
・人の生きる意味は何か
・魂は不滅なのか
これらの問いは、言語の使い方が混乱しているせいだ、とウィトゲンシュタインはいう。本来は、無意味な問いにすぎないのだ、と。だから、有名なあの一節が論考の主張になる。
「語りえないことについては、沈黙しなければならない」
先ほどのような問いは、有意味な言葉にはならず、言語の限界を超えている、と論考は主張する。
そもそも、語りうることと、語りえないことの区別ってつけられるの??
「〇〇については語りえない」という発言が何ごとかについて語っているとするならば、まさにそれについて語りうるということになるし、逆に、何ごとも語っていないとすれば、まさにそのような発言自体が意味をなさないことになる。
つまり、区別をつけることは不可能なのだ!!
しかし、論考は「語りえないことがあるということを語りうる」と主張する。
一体どうやって、論考がそんなことを可能にするのか?
その方法が論考のキモだ。また、そこが論考という書物の面白いところだと思う。
論考の流れ
・言語と世界を写像という関係で把握
・世界はどのような要素からなるか
・言語が世界を写し取ることの内実とは
・世界の可能性を明晰に描き出せる理想の言語とは
・言語の限界と無意味な命題もどき
これらのテーマを考えていくことで、「語りうることの限界」が見えてくるのが論考の構成だ。
ただ、普段は考えないようなことであり、それを理解するためにかなりテクニカルな議論が要求される。これが、論考を読む難しさだ。
しかし、この本書はとてもわかりやすい。論考そのものの大きな目的を随時確認してくれる。議論も必要な箇所をシンプルに説明していってくれる。
ぜひ本書を読んで、詳しい解説を感じていってほしい。
そして、「語りえないことについては、沈黙しなければならない」という結論にいたった論考には、さらに面白い結末が待っている。
次のテーマだ。
投げ捨てるべき梯子としての論考
論考の結論により、哲学的な問いの多くは、無意味な問題として片付けられることになる。
しかし、論考で書けなかったこと、語りえないこと、それこそが重要なものだと、ウィトゲンシュタインは言う。
その語りえないことの意義は、語ろうとする試みを戒める中で、自ずと示される。
この展開がすごいと思う。ウィトゲンシュタインがどんな思いで論考なる道具を編み出したのかが伝わってくるだろう。
ここで、ある点に気づく。論考という議論そのものは「語りえないこと」を語ろうとしているのではないか?
事実、論考の終盤では、語りうることの外側に言及する箇所がある。
そもそも何ごとかについて「語りえない」という判断を下すこと自体が、語りうることの限界を超え出る越境行為にほかならない。我々は、語ることとは独立に考えて「これについては語りうる/語りえない」という判断を下す、などということはできない。
だから、語りうることの限界は、語りうることすべてを最大限に明晰に語ることを通して示せるだけだ、という。
しかし、ウィトゲンシュタインは論考で禁止されるはずのことを語る。
それは、次の意図があるからだ。
最後になって、ウィトゲンシュタインは、論考を「使い捨てるべき梯子」だ、という。
・論考を読んだものにとって、論考は使い捨ての触媒のような役割を果たすこと
・論考そのものの存在意味を消滅させるための書物ということ
この論考が、論考そのものをどう語るのかというメタな視点も、大きな魅力、意義だと思う。ウィトゲンシュタインの凄さを感じるところだ。このような壮大な試みがあるからこそ、人類の歴史においてとても重要な著作として様々なものに影響を及ぼしてきたのだろう。
他にも、「私」との関係を深ぼるテーマもある。だから、心の哲学てきな要素も含まれていると思う。
野矢茂樹 論理哲学論考を読む
本書でも繰り返し触れられている著作がある。
野矢茂樹の「論理哲学論考を読む」だ。
この本は、論考の弱点はどこにあるのか、という点の解説が詳しい。論考を乗り越え、さらなる哲学に進むウィトゲンシュタインの考え方の変化についての解説もある。
論考では、論理が世界と人間の可能性を限定した。だが、後期のウィトゲンシュタインは、逆に、世界と人間の限界こそが論理を限定する。
論考だけではなく、さらなる深い哲学へと勉強を進めることができる1冊だ。
また、松岡正剛の千夜千冊も参考になると思う。
そうだとすると、カタルトシメスという原方法が自分で自分の何かの限界を知って、その限界に応じてカタルとシメスが必要に応じて別かれ分かれになったということなのではあるまいか。そう、考えたのだ(いや、そう考えたにちがいないと松岡正剛は見抜いたのだ)。
これはどういうことに気が付いたのかというと、「限界」ということからモノ・コト・セカイに切りこむという方法があるということなのである。いいですか。
限界というのは、最初から対象としてのモノ・コト・セカイに潜んでいるのではないか。そして、いったん限界がわかると、その限界そのものを方法にするということが可能になってくるのではないか。
論考から後期ウィトゲンシュタインまで、松岡独自の視点が楽しく参考になる。
さらに、論考だけではない、ウィトゲンシュタインの思想を知るには、「ウィトゲンシュタインはこう考えた」という本がおすすめだ。次の記事で紹介している。
まとめ
語りえぬことは沈黙しなければならない、という言葉からも分かる通り、ウィトゲンシュタインの哲学に対する態度が少しでも伝われば嬉しい。
最後に、日本の言語哲学者である飯田隆の言葉を引用したい。
ウィトゲンシュタインにとっての哲学とは、いわば、哲学の誘惑に対してたたかう哲学なのである。
『規則と意味のパラドックス』より引用
関連記事
ぜひ、本書にチャレンジしてみてほしい。
本記事が誰かの自由につながったのならうれしい。