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脳がわかれば心がわかるか 脳科学の乱用を防ぐクリティカルな教養入門

記事の内容

 

「おばあちゃんをうしなった悲しみと、感情中枢の働きのどちらが本質か?」

 

脳科学で、すべては解決できるのか??

この問いに、ほとんどの現代人はイエスと答えるだろう。みな、無自覚的に科学を万能だと感じているからだ。しかし、上のような問いへの答えを考え始めると、違和感が発生するはずだ。

 

本屋に行けば、脳科学でいろいろなことがわかる本がたくさん置いてある。この状況に、著者は警鐘をならす。

 

本書は、脳と心の関係を扱うためのリテラシーを身に着けることが目的だ。そのためには、哲学的な議論が欠かせないということを解説してくれる。

 

現代において、必須の知恵だと思う。個人的にとてもおすすめな本だ。何度も読み返したい。

 

それでは、目次を見てみてほしい。

 

 

 

 

 

 

 

脳がわかれば心がわかるか

 

 

はんらんする脳科学・脳情報に振り回されず、「脳の時代」を生き抜くための処方箋を示した、平易かつ本質的なマップ(『心脳問題』2004年、朝日出版社刊)から12年を隔てた増補改訂版。改訂にあたって改題しました。

 

 

大きな流れは次だ。この議論から、どんな主張に結び付くのかがとても面白いところである。

 

心と脳の関係を考えるためには脳科学だけでは足りず、

なんらかの哲学が必要とならざるえないが、

さりとて哲学によって問題が解決されるわけでもなく、

なにが問題となっているかを現実の社会的条件において考える必要がある

 

 

それでは、本書の大まかな議論をまとめてみたい。

 

 

 

 

脳心因果説 脳が心の原因になっている?

ある脳状態がある心の状態の原因になるように見える。しかし、これは神経科学の言葉と心理の言葉が混ざってしまっている。これを、カテゴリーミステイクという。

 

動物園に行き、キリンやゾウを見ている。そこで、「動物はどこにいるの?」と尋ねるのもカテゴリーミステイクだ。これと同じことが、心の原因を脳に求めると起こってしまう。

 

「悲しみ」と脳状態は、そもそも同列には並ばない。

 

 

 

 

脳還元主義 脳さえわかれば心はわかる

「人間の心というのは脳内の分子活動に過ぎない」と考える自然科学者は多い。

 

ニューロンの活動レベルでは、正解も誤解もない。それでは、錯覚などのような間違っているという意味は、どこにあるのか?

 

心の問題は、環境との関係で成り立っている。つまり、脳の内側だけで考えようとすると、意味が消えてしまう。よって、心は脳のみからうまれるとする脳還元主義は、うまくいかない。

 

 

 

 

脳科学の領域

脳科学とは、脳の統語論。

細胞や分子がどのように働くかを記述してくれる。しかし、心の問題の記述には不十分。環境との相互作用の中で出てくる意味論の探求も必要。

 

脳心因果説、脳還元主義は、科学の領域を超えている。つまり、一種の信仰のようになってしまっている。脳科学の知見の適用には注意が必要。

 

 

 

 

意識のハードプロブレム

なぜ脳内活動の過程に内面的な経験、心がともなうのか?どんな神経機構の仕組みなのかは、解明が進んでいく。

 

「痛み」と神経線維の興奮とは同じものなのか?別のものなら、それはどこにあるのか?

 

科学が世界を自然法則によって説明できるようになればなるほど、実はその説明自体によっては説明されない「端的な説明」が可視的になってしまう。

 

そもそも、どうしてその神経線維の興奮が、痛みでなければならないのか?こうした「端的な前提」は、ハードプロブレムになる。これは、原理的に答えがない。

 

クオリア問題も、ハードプロブレムである。

 

 

それ以上説明できない「端的な前提」については、次の記事でまとめている。

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唯物論と二元論

 

唯物論

人間の本性は物質だけ。

心は脳という物質から創発されると考える、「創発主義的唯物論」

 

創発とは、個々の要素では生じない性質が、システムのレベルでは生じること。

 

 

二元論

心と脳の両方がある。しかし、物質と非物質がどのように関係することができるのか、という難問がある。

物である脳の働きにともなって、心が生じるとする随伴説がある。

 

 

創発主義的唯物論と、随伴説は立場が近く、その違いは微妙である。

 

 

 

 

 

心脳問題の核心 解決不可能な理由

 

心脳問題の争点は、人間は物に還元できるのか?というもの。

 

この問題の本質をつかむために、人間理性の限界を参照する。カントのアンチノミーだ。

 

正命題:世界は自然法則に還元できない。自由が存在する。

反対命題:世界は自然法則に還元できる。自由が存在しない。

 

 

 カントは、このどちらか一方だけではなく、両方が妥当性を持っていることを示した。

 

つまり、自由があるとともに、自由がないということになる!!こうした問題を人間理性は解くことができない。

ともに成り立つのだが、背反関係にある。つまり、飛び越えようとすれば、カテゴリーミステイクになる。

 

心脳問題において露呈するジレンマとは、このようなアンチノミー、人間理性の限界にほかならない。だから、解けない問題なのだ。

 

 

 

 

 

 

「重ね描き」により解消

 

日常の経験と、科学の記述のズレ。

 

哲学者 大森荘蔵の解決策が、「重ね描き」というもの。

 

日常の描写と科学の描写は並列ではない。日常描写の上に重ねられているのが、科学の描写である。ベースとなるのは、常に日常描写の方だ。論理的な前後関係がある。それらは別物ではなく、密着しているような関係にある。

 

そもそも、自然科学は心を締め出している。それなのに、科学で心を描写しようとしてしまう。最初に排除された心が返ってくるはずはない。

 

だから、心脳問題とは、あべこべなのだ。

 

問題設定の時点でおかしいことをしている。だから、アンチノミーになってしまう。

 

「重ね描き」という立場をとれば、心脳問題は解消されてしまう。

 

しかし、理解はできても納得しにくいという気分に、すぐにまた陥ってしまう。

 

心脳問題は解消あるのみ。解決はされない。しかし、何度も回帰してくる。

 

これはなぜなのか?

 

なぜ、「おばあちゃんをうしなった悲しみと感情中枢の働きのどちらが本質か?」という問いが立てられてしまうのか?

 

本来は重ね描きである二つの世界の関係が、なぜジレンマとしてあらわれてしまうのか?

 

この問いを分析するには、社会、科学というものを考察する必要がある、と本書は進む。

 

 

 

 

 

科学とは?

変化する自然現象を、変化しない言葉、つまり同一性をもちいて表現すること。ここに、一般性をもつという条件が加わる。

 

大森は、科学万能主義を批判した。科学者も、実際には、日々の知覚や感情の上で成り立つ日常的な体験の上に、科学を重ねているにすぎない。

 

科学的世界像というものがそれ自体存在しているわけではない。

 

 

 

 

 

 

 

脳科学の政治性

 

脳科学の問題は、核の問題と同じような高度な政治性をもつ。脳科学における政治性を私たちはもっと議論するべきだ、という。

 

もはや、心脳問題を考えることは、政治的な意味を持つようになっている。

 

脳と心は重なっている。すなわち、脳が変われば、心の風景も変わることになる。

 

「コントロール型政治、脳工学、脳中心主義」というトライアングルの社会になる。

 

 

 

 

 

本書の流れを再確認

 

心と脳の関係を考えるためには脳科学だけでは足りず、

なんらかの哲学が必要とならざるえないが、

さりとて哲学によって問題が解決されるわけでもなく、

なにが問題となっているかを現実の社会的条件において考える必要がある

 

 

科学の進歩により、分かること、できることが増えてくる。すると、これまでうやむやにしてきた問題を避けることができなくなっていく。だから、根源的な哲学的問題に直面してしまう。

 

著者のメッセージの核心は次のようなものだ。

 

心と脳という関係の最終解答はない。そのような「うまい話」はない。これは、新たな社会的条件の下で、政治的・倫理的な選択を迫る形で答えのない問いが提起されつづけることである。そしてそれこそが、心脳問題の核心なのである。

 

 

 

 

さらに、本書は、科学という方法論の見直しに入る。そこで、登場するのが、ベルクソンの「持続」という概念である。次の記事へ進んでみてほしい。

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より詳しくは、ぜひ本書へと進んでん見てほしい。

 

 

 

 

 

 

 

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