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ぼくらが原子の集まりなら、なぜ痛みや悲しみを感じるのだろう【本紹介・まとめ・感想】

記事の内容

 

意識の謎、疑問に感じたことはあるだろうか?

 

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この記事では、この謎に挑むある本を紹介します。

 

 ぼくらが原子の集まりなら、なぜ痛みや悲しみを感じるのだろう

 

という本です。

 

本書では、次の内容を学ぶことができます。

 

・意識のハードプロブレムとはどんな問題か

・意識のハードプロブレムにかんする主要な理論とは

・理論の批判的検討

・意識のハードプロブレムの解決方法

 

 

意識のハードプロブレムを解くために本書が注目するポイントは、本来的表象という概念です。

 

この概念に注目して、この記事、または本書へと進んでみてください。

 

 

 

 

 

 

意識経験の謎

 

意識経験

われわれが生きていくうえで経験するものの総体。知覚、感情、感覚、思考、イメージなどなど。

 

意識経験を持つものと持たないものの違いをもたらすものは何か?

ある主体があるときに特定の意識経験を持つのはなぜか?

ある脳の活動が生じるとき、なぜ、そしてどのようにある意識経験が生じるのか?

 

 

 

 

意識のハードプロブレムとは?

 

物理主義

 

すべての現象は、自然科学的な枠組みのもとで理解・説明できるだろ!という立場。

 

この世界はすべて、ミクロ物理的な存在か、それによって構成された存在。これらには構成による説明を与えられる。

 

また、ミクロ物理的な存在によって構成されたマクロ物理的な存在には、実現による説明を与えることができる。

 

 

 

 

 

なぜ意識の問題は特別な難問か

 

意識経験は、独特の感じであるクオリアを本質とする。このことが、意識の自然化を特別に困難なものにする。それゆえ、意識を自然化するという課題は、意識のハードプロブレムと呼ばれる。

 

・思考可能性論証

同じ脳状態なのに、クオリアだけが異なったり、クオリアだけが全くない状態を想定できる。物理主義では、このような想定状況を説明不能。

 

・知識論証

コウモリの知覚システムを解明できたとしても、コウモリが感じるクオリアを知ることはできない。意識経験は、脳の状態そのものではない?

 

 

 

 

 

意識のハードプロブレムは解決不可能だとする3つの立場に反対する

 

1 知識可能性論証を批判する

 

クオリア逆転やゾンビの思考可能性は、意識概念の混乱に依っている。より適切な意識概念を手に入れたとき、それらは思考不可能となるかもしれない。このような余地がある以上、知識可能性論証は完全ではない。

 

 

2 ハードプロブレムは人間には解決不可能、という見解を批判する

 

人の認知の限界により、ハードプロブレムは人間には解決不能だとする。しかし、この説には、原理的な根拠が見当たらない。

 

 

 

3 タイプB物理主義 ハードプロブレムは解決不要、という見解を批判する

 

意識概念は特殊だから、そもそも説明できない。

 

「豊臣秀吉=羽柴秀吉」という言明が真である理由を説明できないのと同じように。

 

「意識経験E=脳状態B」という同一性言明には、それ以上の説明を与えることができない。この言明に含まれる語に対する概念は、説明に利用できるような概念内容を持たないからだ。この言明にある意識概念は、実質的な内容を持たない。

 

なぜ説明上のギャップを解消できないかを物理主義的に説明することで、説明上のギャップそのものを解消することなしに物理主義を守る。

 

しかし、彼らは、意識概念の特殊性を、物理主義と整合的な仕方でうまく説明できていない。それに、概念による説明上のギャップは、その概念に対する対象がどのような存在論的な身分を持つか考えるうえで、いかなる役割も果たさない。よって、説得的でない。

 

 

 

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意識の表象理論

 

1 クオリアに関する志向説

何か他のものを表す働きを表象という。

表象そのものの性質と、表象の志向的対象の性質を区別することに注意する。

 

クオリアは、意識経験そのものの性質ではなく、意識経験の志向的対象の性質であるという仮説がこの本のポイントになる。例えば、りんごの赤というクオリアは、意識経験という表象が指すりんごという対象がもつ性質である。

 

意識経験=表象

クオリア=表象の指向的対象が持つ性質

 

意識経験の内在的性質、つまり、脳状態そのものは意識経験に表れない。意識経験に表れるのは、志向的対象の性質のみ。そして、意識を志向性概念によって分析し、志向性を何らかの方法で自然化することで意識は自然化できると考える。

 

・意識表象の志向的内容はわかる。赤いりんごのことだ。しかし、意識表象そのものの性質とはなんだろう?ニューロンの神経科学的な状態、それ以上でもそれ以下でもない、か?意識経験という表象は、他の表象とどのように違うのだろうか。

 

こうした指向性を意識経験の全てに拡張できると考える。痛みや感情も、わたしたちの身体の性質だ。思考も、イメージや音声の知覚である。わたしたちの多種多様な意識経験は、すべて世界のあり方を表す。意識経験は、本質的に知覚経験なのだ。

 

 

 

 

意識は表象である、の問題点

 

  • 意識経験である表象とそうでない表象の違いをうまく説明できない
  • 事物の物理的性質と経験される性質との関係をうまく説明できない
  • 意識経験には存在しないものが現れるという事実をうまく説明できない

 

どうやら、鍵は、表象という概念のさらなる分析にありそう。

 

 

 

 

 

本来的志向性の自然化

 

本来的表象

他の表象の存在を前提としない表象。一方で、文や絵などの表象は、派生的。

 

生物が本来的表象をもつならば、自分自身と離れた世界のあり方に応じて、行動を変えることができる。

 

単純な生物では、本来的表象は、特定の行動と結びついたオシツオサレツ表象として働く。オシツオサレツ表象とは、ある感覚を入力したとき、必ずある行動をとるような表象のこと。

 

複雑な生物では、表象システムにおいて、記述的表象と指令的表象が分化する。記述的表象は特定の行動との結びつきを持たない。

 

本来的表象の志向的内容は、その表象がその生物にとってどのように使用されるかによって決まる。

 

 

 

 

 

ミニマルな表象理論 意識と表象の本当の関係

 

ミニマルな表象理論

本来的表象は意識経験である

 

意識経験を持つことは、世界とある特定の仕方で関わることにほかならない。それは本来的表象を持つことによって可能になる。

 

経験される性質は、物理的性質に還元できないことに注意。経験される性質は、経験主体の表象システムのあり方に相対的な外界の事物の性質だ。

 

よって、物理主義者の課題は、クオリアを事物の物理的性質に還元することではない。意識経験を他のものに還元することではなく、意識経験に物理的な世界における独自の身分を与えることが、意識のハードプロブレムを解くための鍵だ。

 

・本来的表象を持つ生物だけが、意識経験を持つ。つまり、本来的表象をもつものは、すべて意識経験をもつ。よって、ロボットやコンピュータも意識経験を持つことは可能。

 

・行動と結びついた本来的表象を持つから、ある主体がある特定の意識経験をもつ

 

 

 

以上の準備によって、意識のハードプロブレムを物理主義的に解くことができた。

 

 

 

 

感想

 

全体の議論は、とてもわかりやすい。勉強になった。

 

意識のハードプロブレムを解決するために、意識を物理主義の世界のどこに位置づけるのか、という点が本書のおかげでよくわかった。「意識」の取り扱い方がわかった、と言うべきだろう。

 

新たに生じた疑問をまとめたい。

 

本来的表象がクオリアを持つ仕組みそのものについては、本書では触れられていない。本来的表象を神経科学的に解明する必要がある。本来的表象が、志向対象の性質を表すしくみが気になる。

 

しかし、その時に再度、クオリアの問題が出てこないだろうか?意識のハードプロブレムが回帰してしまう気がする。本書では、本来的表象の位置付けは描かれている。しかし、物質であるニューロンとのつながりについての詳細は無い。

 

よって、クオリアについての疑問が残る。

 

うーん、しかし、そこは「そうなっている」としか結論できない類の問題だろうか?

 

 

より詳しくはぜひ本書ヘ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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