記事の内容
今回は、宗教と人間の本能に関する本を紹介します。
『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』という本です。
宗教は人類生存のために進化したのか?
この本の著者はイエスと答えます。
「原始社会において宗教は不可欠だった。信仰の本能は人間の本性に組み込まれている」
この考えを立証するために、とても丁寧に議論が組み立てられていきます。
それでは、いくつか話の内容をまとめてみます。目次をご覧ください。
宗教の定義と社会的側面
進化の原動力である自然淘汰は、生存と誰がより多くの子孫を残すのかという問題。宗教の社会的側面の多くは、集団内の強い結束や、戦時の士気の高さといった利点をもたらした。そのメンバーはより多くの子孫を残せたはず。
本書の著者は、宗教の定義はさまざまな視点からなされることを踏まえ、次のように定義する。進化論の視点から見た定義だ。
宗教とは、感情に働きかけ、人々を結束させる信念と実践のシステムである。そのなかで、社会は祈りと供犠によって超自然的存在と暗黙の交渉をし、指示を受ける。神の懲罰を恐れる人々はその指示にしたがい、自己の利益より全体の利益を重んじる p18
道徳と宗教の関係はどうか?
道徳は人間だけでなく、サルにも見られる。しかし、宗教は人類にだけ、道徳の上に付け加えられた。
そして、道徳も宗教も、感情に基づいている。
道徳性の基礎には、2つの心理的なプロセスがある。道徳的直感と道徳的推論だ。なぜ、進化は2つのプロセスを作ったのか?進化の異なる段階で生まれたからだ。道徳的直感はより古いシステムであり、推論能力、言語能力よりも前に人類に備わった。
こうした道徳性の起源は、霊長類の和解と仲介の必要性にあったのではないか。つまり、「争い」が出発点だ。原始社会では、小さな集団同士の争いが頻発していた。その争いに勝つには、団結力を挙げる必要がある。そこで役に立ったのが、音楽や踊りである。トランス状態へと導き、恐怖心をさげ調和をもたらす。
さらに、こうした原始宗教では、超自然的存在が鍵になる。こうした存在に監視されることが、集団のルールになるのだ。超自然的存在が一人一人の心の中まで見透かしているという教義、信仰は、いわゆる「心の理論」の起源とも関係しているのではないか、という説はおもしろかった。
言語と同様に、普遍的な道徳の文法が存在するかもしれない。しかし、こうした道徳と、進化した知性による利己心とはぶつかる場合がある。個人が自分の利益より集団の利益を優先するような行動目的が必要だ。それこそ、宗教への発展である。
宗教は適応か、進化の副産物か
宗教行動はほかのプロセスから偶然発生したものか?つまり、進化上利点があったから発生したわけではないのでは。
血液が赤いことは遺伝子に基づいているが、自然淘汰上利点はない。偶然による副産物だ。
進化心理学者のピンカーの「適応的」の基準をみよう。
・生得的であること
・過去に生存状態を改善させていること
・工学的機能をもっていること
本書の著者は、これらの基準を宗教行動も満たすと考える。一方、ピンカーやドーキンスなどは、宗教行動は副産物であるとの説を持つ。
自然淘汰が集団レベルで働くかどうかという大きな問いとの関係もある。
そして、宗教行動と関係が深いのが利他性である。しかし、集団の利益のために行動する個体は、利己的に行動する個体より不利になる。ならば、どうして利他主義という戦略は進化したのか?
「集団内では利己主義が利他主義を打ち負かす。集団間では利他的集団が利己的集団を打ち負かす。これ以外はすべて補足説明である」p80
宗教と信頼、取引
人類は、現代のような明確なルールがない中で、どのように経済活動を行えたのか?そこでは、信仰から生まれる社会的結びつきが重要な働きをしていた。
資本主義と宗教の関係を分析したのがウェーバーだ。資本主義の起源は社会制度ではなく、人々と信仰と態度にあるというウェーバーの分析を著者は認めている。
道徳は宗教がなくても成り立つかどうかについては、賛否がある。一つ確かなことは、私たちは社会規範に従って生活していることだ。そして、その社会規範に、宗教の歴史が影響を与えている。
すべて無神論者で構成される社会は、共同体として有効な強い信頼、道徳を生み出せるか?平和な時だけではなく、戦争や不景気のときもそれらを維持できるのかが鍵だ。しかし、宗教行動が本能であるならば、そんな社会は観察不可能だろう。
すべてとは言わないまでも、社会の道徳規範のほとんどは、宗教、そして神の懲罰を怖れる感情によって維持されてきた p236
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