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人はなぜ宗教にハマるのか? 私たちが「神」を求めてしまう理由

記事の内容

 

人はなぜ宗教にハマるのか?

なぜ、この21世紀においても宗教はなくならないのか?

 

無宗教に見える日本においても、「宗教現象」は日常のありとあらゆるところにあります。テレビで流れている占い、オーラ鑑定、お墓参り、心霊特集、などなど宗教現象だらけです。

 

つまり、人あるところに必ず宗教現象があるのです。

 

この現状を分析することは、あなたの人生にとって価値あることです。なぜなら、あなたの自由と幸せに結局は関係してくるからです。そして、人の集団から作られる政治と経済にも、もとろん大きく関わります。

 

だから、、なぜ人は宗教にハマるのかという深い問いに向き合うことは、とても大事なことです。

 

今回は、これらの問いを考えるために役に立つ書籍を紹介します。それでは、目次をごらんください。

 

 

 

 

人はなぜ、宗教にハマるのか?

 

 

 

■日本人だけが知らない「宗教」の本質

かつて「魔女狩り」があり、「十字軍」がありました。
神の名のもとに殺人や殺戮、戦争が行われました。

もちろんこれは過去形ではないのは言うまでもありません。
現在でも神の名のもとにテロがあり、
さまざまな戦争が同時進行しています。

「本来、人を救うための宗教が、人殺しを正当化するのはなぜか?」

多くの人がこうした疑問を持ちます。
答えは簡単です。

「宗教」においては、本来、
自分の宗教の信者以外は「人」ではないからです。

これが原理主義者の論理です。
この論理は大変乱暴に聞こえます。

ただ、これが少なくとも仏教以外の宗教では、
本来の論理であることを理解しておかないと、
国際社会で起きている出来事の因果を見誤るリスクがあります。

 

(強調は、私によります)

 

 

 

それでは、本書からいくつかまとめさせてもらいます!

 

 

 

 

 

 

脳が宗教を欲する理由

 

「神とは完全なものである」

 

神が存在しようがしまいが、神とは人間の脳が作り出したもの。

 

なぜ、人間の脳は「神」を作りたがるのか?

 

自分が不完全な情報システムであるということを自覚するから。だからこそ、完全情報があるに違いないと思ってしまう。

 

完全情報への憧憬や畏敬の念を持ってしまうのが人間である。

 

 

 

 

宗教学の限定性

 

宗教学が対象とする宗教は限定的。

 

宗教現象は、もっと広い。

脳が自らのカラクリを通じて「完全な存在」だと信じ込む対象は、そのすべてが宗教現象である。

 

すると、テレビでやってる占いから、資本主義やマルクス主義まで宗教現象になる。

 

 

 

 

宗教という論理

 

生命、人間には、本能的に「殺し」は嫌だというプログラムが効いている。殺すのも殺されるのも嫌だという本能が備わっている。

 

それならば、なぜ人殺しがあるのか?

 

人間に本来、禁忌として埋め込まれている一線を越えさせる論理を持つものは、そのすべてが宗教的である。

 

宗教という幻想装置が、人を動かしてしまう。

 

つまり、交際相手をとった相手を殺すのは「俺の女をとりやがって教」、暴力団は「なめると殺しますよ教」、そしてまた司法制度も「殺したら殺しますよ教」という宗教現象です。こうした広い意味における宗教現象が人を突き動かさないかぎり、人間は人殺しができないようになっているのです。

 

 

この主張については、もう少し考えたいところ。

人殺しがおきるロジックが常に宗教現象で説明できるかといわれると疑問が残る。殺しの本能もあるのではないか。動物にも同族殺しをするものもいる。進化心理学的な観点からは、むしろ「殺しをしてしまうようになぜ本能がデザインされたのか」研究がされている。たとえば、殺しが全面的に不利になるのではなく、その種の繁栄のためには一部の殺しが許容される場合もあるのでは、と想像できるかもしれない。

 

また、本能と宗教もどこまで整理できるのだろう。宗教の起源もまた本能なのだから、その簡単な切り分けも難しい気がする。

 

 

 

 

神の存在の否定

 

現実とは、今本人にとって臨場感のある世界のこと。

 

不確定性原理、不完全性定理により、ある限界が明らかにされた。

 

さらに、チャイティンの不完全性定理は、この世に完全な系はない、ということを示している。

 

あらゆる学門の記述のために使われている数学すら、不完全な記述言語になってしまう。

 

 

数学全般に不完全性が働くというチャイティンの証明は、学問のあらゆる系が不完全であるという証明とイコールです。それはすなわち、人間の知の体系すべてが不完全である、ということになります。

 

 

このチャイティンの不完全性を利用し、1991年にパトリックグリムという宗教学者は、神が存在しないことを証明した。

 

著者は、1991年は神が正式に死んだ年、と指摘している。補助として、『ゲーデルの哲学 不完全性定理と神の存在論』という本から、グリムの定理について引用したい。

定義 すべての真理を知る無矛盾な存在を「神」と呼ぶ

グリムの定理 「神」は存在しない

 

 

 

グリムの定理そのものは学問的に価値のある指摘なのだと思う。しかし、その根っこにある不完全性定理については、ややこしい。本来、数学的に厳密に定義されている「不完全」という意味を、日常の感覚で使ってしまえば誤謬が生じてしまう。正しく使うためには、慎重になるべきである。どや顔で「不完全性定理」のことをつぶやくと、数学に強い人から総攻撃されてしまうのでご注意を(笑)

 

不完全性定理についてはこちらをどうぞ。

www.buchinuku.work

 

 

 

 

 

 

 

「アプリオリ」を全面否定した釈迦

 

「アプリオリ」とは、経験的認識に先立つ自明な認識や概念のこと。

 

まさに、「神」のことである。

 

あらゆる宗教には本質的な矛盾がある。それは、部分情報である人間に完全情報である神のことがなぜわかるのか、という点だ。

 

一方、仏教にはこうした矛盾はない。アプリオリな完全情報などないと釈迦はいっているからだ。アプリオリなものなどない、これが仏教の本質でもある。

 

「すべてのものは幻である」

なぜなら、すべてはなのだから。

 

これが本来の仏教だ。

神が否定された21世紀においてこそ、仏教は強い意味をもってくるはずだ、と著者は主張する。

 

 

 

 

 

まとめ

 

・宗教のような唯一絶対の価値はない

・他人の価値観に従う人生では満足できない

・過去の刷り込みによってできている今のコンフォートゾーンの外へでるべき

・釈迦の「空」を認識することで、迷信から自由になり、自分の価値観をつくる

 

 

刷り込まれた価値観を疑い、本当の意味で自由になる。これが本書の中心的なメッセージだとおもう。

 

なぜなら人は、無自覚的に宗教現象に絡めとられているのだ。そのせいで、自由と幸福から遠のく人は多い。

 

よりくわしくは、ぜひ本書へと進んでみてほしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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