記事の内容
先日アベマプライムにて、生命倫理がテーマの回が配信されました。
ひろゆきや生命科学の専門家である高橋祥子などが参加しています。
生命科学が発展するなか、科学はどこまで許されるのか?
ゲノム編集された赤ちゃんの誕生や、人のクローンなど、面白そうな話題がつまっています。
今回は、放送でのひろゆきのアイデアをベースに、生命倫理についてざっくりと考えてみます。
ひろゆきの意見
生命倫理の話し合いは時間的にムダ。
技術実践を許すかどうかは国による。
日本ではダメでも、アフリカならオッケーとなり、生命倫理の話し合いをしたところで勝手に技術発展はつづく。
生命倫理というと、議論のための議論になりがち。
現実では求める人がいる以上、最新技術には需要がある。
子どもの命を助けたい親なら、自国よりも生命倫理がゆるいが技術が発展している国で子どもを治療したいはず。
ゲストである専門家の高橋祥子も、基本的にはひろゆきのこの主張を否定していなかった。
人の欲は止められないよね
生命倫理=科学を制限するものとみるなら、ひろゆきの考えはもっともだと思う。
生命倫理として、いくら取り決めたところで、人の欲を抑えることはできない。
・この子の命を助けたい
・この子には、より良い遺伝子を持っていて欲しい
・生命の神秘を解き明かしたい
これら欲は、人としてとても自然なものだ。
だから、ある国が法規制したところで、他の国では規制されていないという状況は続くだろう。
進歩と規制とはいたちごっこだ。
そもそも、こうした人の欲こそ、科学もふくめた人類の進歩の原動力だ。
だからこそ、人の欲が持つメリットとデメリットの両方を視野に入れておきたい。
生命倫理の議論こそ、科学を発展させることもあるのでは?
生命倫理というと、科学の発展を制限するイメージがある。
しかし、生命倫理という視点が科学を発展させることもあるのではないか?
そもそも、生命倫理と生命科学は、人が実践する以上絡み合っている。
だから、生命科学の実践にも、倫理的な視点は取り憑いている。
最先端の科学ほど、この実験はやっていいのか、判断が難しいものがでてくるだろう。
生命科学には、そもそも倫理に関わるような視点が詰まっている。
なぜなら、私たちヒトはみな生命だからだ。
科学の対象が私たち自身になれば、私たちヒトが倫理を持つ存在である以上、倫理の問題は避けられない。
私たちヒトは、ヒトを実験に使わずにラットや猿を使う。
ある週までの胎児なら中絶してもいい。
なぜ、これらは許されているのか?
ヒトはいつからヒトになるのか、ヒトは他の生物とどの程度ちがうのか、なら調べられるかもしれない。
こうした、生命倫理的な問いから、科学で答えの出せそうな問いも生まれてくる。
倫理一般に絶対的な答えはない。
しかし、倫理的な問いに触発されて、答えの出せそうな問いを立てることはできるだろう。
むしろ、科学の歴史をみると、こうした流れは多かったのではないか?
だから、生命倫理について議論することそのものが科学そのものであったり、科学の発展に貢献するもあると思う。
そもそも倫理ってなに?
生命科学な話題が多かったのはよかった。
しかし、最初から最後まで「倫理」という言葉の意味がややぼんやりとしていた。
倫理とはなにか考えるだけでも、哲学的にいろいろと発散してしまうと思う。
だからこそ、今日の放送内では、倫理という意味をこのようなものとして扱いましょう、という共通理解が示されていてほしかった。その方が、議論の生産性は上がるだろう。
そもそもなぜ人は倫理というものを考えなくてはいけないのか?
倫理というテーマが不要なものなら、科学の進歩によりとっくに下火になっているはずだ。
しかし、生命科学の専門家である高橋祥子は、倫理の議論こそ重要で欠かせない、と冒頭に述べている。
ここの論拠をもっと言ってほしかった。
また、倫理が定まったならどうやって人の行動を縛るのか?
ここには、法とはなにかという視点も欠かせない。倫理と法の関係も気になる。
ひろゆきのような、倫理話し合っても無駄だよねという視点にも共感しつつ、
生命倫理が扱うようなテーマの重要性も引き続き考えていきたい。
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