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アベプラ「ひろゆき 古文漢文いらなくないすか?」 個人的感想まとめ

記事の内容

今回は、アベプラで放送された

 

【古文漢文】「要らなくないすか?」ひろゆきがぶち上げた"オワコン論争"物議に…なぜ必修課目?カリスマ古文講師&ブルガリア出身の研究者と激論【受験】【義務教育】

 

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の内容に注目します。

 

それぞれの意見の要点を引用しながら、自分なりの感想を考えていきます。

 

いろいろと盛り上がったトークでしたね(笑)

 

内容の要点確認のためにも、さらに思考を深めるためにもこの記事を役立ててもらえればうれしいです。

 

 

 

 

 

ひろゆき (愛をこめて敬称略で)

 

子供たちの学びに費やせる時間は限られている。だから、古文漢文よりも役に立つ知識を教えるべき。

 

論点は、優先順位

学問として、教養として古文漢文を否定しているわけではない。小中高の教育カリキュラムの優先順位の話。

 

税金や性教育教えるほうが優先度高いだろう、と。

 

個人的には賛成。全廃ではなく古文漢文の教える量を減らし、入試には出さないようにしていいと思う。

 

 

 

日本文学研究者 ツベタナ・クリステワ

 

その国独自の文化とアイデンティティのために、古文漢文は大事だ。

人格と人生を豊かにしてくれる。

私たち人は、言葉によって世界を認知している。

(ウィトゲンシュタインを引用。よりくわしくは、論考を読むことがおすすめ。)

今の日本語をもっとよく知るために古典漢文は重要。

 

論点は、古文漢文の重要さそのもの。

 

 

 

 

宇佐美

 

義務教育は、身の回りの疑問に答えてくれるとっかかりになりうる。日本語に触れている日本人は、古文漢文に疑問を持つようになる。

役に立つかどうか論争は、出口から物事を見すぎ。

 

目の前の疑問に興味をもつ。この疑問へのとっかかりこそ義務教育なのでは。

「役に立つかどうか」という発想では限界があるのではないか。

 

 

 

 

パンサー向井

 

自分にとっては、どの科目も興味が持てなかった。けれど、要点まとめたりなどの、勉強する方法の部分は習得できたし今でも役に立つ。

 

 

 

 

議論にならず...(笑)

パンサー向井さんが言っているように、議論を成り立たせるためにも論理的な国語の力が必要だ。

 

今回の議論のメインは、論点がすれ違っていたままだった。優先順位の話をしたいひろゆきと、古典漢文の重要性を主張したい文学研究者。

かみ合っていなかった。残念。

 

頓珍漢な議論の時のひろゆきの目ぱちくり。ありありと浮かんでくる...(笑)

 

 

 

 

教育の目的は?

 

それぞれの論点をふまえつつ、本質を考えてみよう。

 

議論が、優先順位というテーマに絞られていたならどうなっていたのか?

たとえば、税金の知識と性教育、どっちが優先順位が高いのか。

 

それを決めるためには、基準が必要なことがわかる。優先順位の話をするためにはある価値基準がいる。今回なら、教育の目的論だとおもう。

 

教育は○○のためにある。だから、カリキュラムはこのように組み立てるべきだ。

 

よって、この原理原則である目的論の部分に回帰する問題だとおもう。

 

それを深めないと、数学はどの程度教えるべきなのか、性教育はどの程度教えるべきなのかといった話にそもそも基準を与えられない。

 

ひろゆきのようなカリキュラムの内容を見直そうという提案そのものは常に重要。だからこそ、教育の目的論という本質まで深ぼるべきだ。しかし、これがかなり難しい。

 

教育の目的とはなにか?人によって考えが分かれるのではないか。だからこそ、専門家の意見を聞いてみたい。

 

また、この視点において、宇佐美さんの意見はかなり重要なのではないか。「役に立つかどうか」という発想だけでは、教育という本質を捉えることはできないのでは。

 

それに、「役に立つ」ということの意味もまだ曖昧。社会はものすごい勢いで変わる。社会に相対的に役立つということか。社会が変わっても、普遍的に何かに役立つということなのか。だれにとって、役立つのか。

 

 

 

たとえば、性教育

 

性教育を例に考えよう。

日本では、性教育の内容がかなり手うすい。それにもかかわず、人によって結果がかなり異なる。正しい知識をベースによい性生活を営んでいる人、間違った知識をもとにダメな性生活だけの人。

これだけではなく、正しい性知識をもっているのに、クソみたいな性生活を営んでいる人もいる。

 

けれど、ここで使った「よい」「ダメな」という言葉もあいまいだ。なんと言い換えればいいだろうか。こう考えていくと、やはり性教育とは何のためにするのかという目的論の議論が深まっていない気がする。

 

 

 

理想と現場のギャップ

じつは、すでにいい目的のもとカリキュラムが立てられているののかもしれない。教育目標だけをみれば、多くの人が賛成するような目標だ。

 

しかし、現場を見ればそうはなっていない。なぜだろうか?

 

この理想と現場のギャップという視点も見逃せない。なぜならば、いい目標に変更しても、現場が変わらない可能性があるからだ。

 

このずれの原因はなにか、これを考えることも実はこのテーマには欠かせないかもしれない。

 

 

 

 

まとめ

今回感じたことをまとめます。

 

・カリキュラムの優先順位を考えるためにこそ、教育の目的という基準を深掘りすることが必要なのでは。

 

・教育の目的とは何か?「役に立つかどうか」という視点だけでとらえられるものなのか?「役に立つ」ということの意味は何か。

 

・いい教育目的が設定されても、じっさいの教育現場で機能するのか?このずれの正体、原因はなにか。

 

考えるべきことは盛りだくさんですね。かんがえていきましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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